水底のうたかた

たまさかのお喋り

としのせ、しのとし

 

川端康成『雪国』に関するブログを書いて以降、どんどん記事を書くぞ、と意気込んだものの、結局何も書かず仕舞いで年の瀬となりました。まずは恒例の今年の読書ベスト10を。以下、順不同です。

 

 

  1. 荒川洋治詩集(思潮社)  荒川洋治

 

 これをはじめて読んだ時、自分はどうして荒川洋治じゃないんだ、と激しく後悔した。初期がとにかくかっこいい。それまでの喪失の経験に裏付けられた戦後詩から本格的に袂を分かって書きつけられた詩語はいま読んでもあたらしい。「口語の時代は寒い」等々のキャッチフレーズも心憎い。そして随筆は抱腹ものの面白さ。

 

 

  1. ア ナザ ミミクリー(書肆山田) 藤原安紀子

 

 いま、日本語のシンタックスの破壊を試みつつあたらしい詩語の創出を目指すモードにそれほど心惹かれないけれども、これを最初に読んだ時はともかく衝撃的だった。

「膨張しつづける語を束にしてこころなどというものを語れぬように 己の声で歌い光速でばくはしていくサンクチュアリで あそぼうよ」

と、こころを歌う、という詩のありかたを拒絶しつつ、破壊とありえない再生を施された言葉たちの奥底に流れるかすかな抒情の物語が、この一冊の書物を比類なく見事なものにしている。

 

  1. 意味がなければスイングはない(文春文庫) 村上春樹

 

 エッセイは小説ほど肩肘張っていないのか、小説では見られないようなユーモラスな比喩が満載で、選曲も面白い。ジャズやクラシックなどの中からマイナー・ポエトに類する一曲を敢えて選んだり、彼好みの洋楽、さらにはスガシカオ(!)

書籍化にあたって楽譜を取り寄せるほどの徹底ぶりながら語り口は平明で、読者との親密な言説空間をつくりつつ、ゆっくりと音楽と自分だけの物語を結ぶ、という素敵な聴き方を示唆してくれる。

 

 

  1. 音楽の聴き方(中公新書岡田暁生

 

 アニメ『響け! ユーフォニアム』をきっかけに様々な音楽関係の本を読みましたが、先の春樹とエッセイと並んで出色の一冊。音楽には聴き方=知覚の枠組みとそれを表現する為の適切な語彙がある、として理論や、時には作曲家の逸話、音楽史果ては文学からも引用して説得力豊かに、音楽を聴くたのしみ、その広大な世界に分け入る糸口を提示してくれる。

 

 

  1. こちらあみ子(ちくま文庫) 今村夏子

 

 ディス・イズ・小説。決まったメッセージ性やこれといって目立った前衛的な技巧はいっさいない。ただ、主人公「あみ子」と、彼女をとりまく人々のズレを孕んだ不穏な物語を差し出しているだけだ。が、余計な語彙もなく、一切の枝葉もない。小説はこれでいいのだ、と強く印象に残った一冊。

 

 

  1. 死者の奢り(新潮文庫大江健三郎

 

 人生初の大江健三郎。最初こそ不条理文学に倣ったような観念性がすこし鼻につくけれど、たしかな主題とそれをものにする技術、表題のつけ方はデビュー時からすぐれている。不思議にもあたらしい時代をたしかに感じさせて、前時代の三島や川端といった作家の文章とは明らかに趣が異なる。「飼育」に至っては、中短編として、適度な肉づけの締まった文章、戦後という時代が許すリアリティ、観念性を排してより表出した身体性、匂いといったものが彼の得意とする差別の主題と絡んで、ひとつの凄い達成を為している。

 

 

  1. 詩篇アマ―タイム(思潮社) 松本 圭二

 

 ページ中の上下にそれぞれ違う詩を書き記したり、時には大胆に散文的文章の上に、別な文章を配したり。あくまで自己の私性を契機としていることはむしろ自覚的で、この書物が過去に発表した詩のコラージュであることも詩中に織り込まれているが、出来上がっているこの書物はそれらを超越している。詩集、というより書物が一冊の詩。そのようにしてしか存在しえない言葉たちがここにあり、それを読みうる唯一無二の幸福がここに。

 

 

  1. 言語と身体性《岩波講座 コミュニケーションの認知科学 第1巻》(岩波書店

 

 いわゆる言葉とそれを指し示すモノとがどう繋がるのか。本書は人が言葉を覚える過程で称するこのような「記号設置問題」を主としてコミュニケーションにまつわる論文を複数収める。認知科学の先端かつ素人にもわかりやすい記述で、どれも面白く読んだ。個人的には各国における「青」という語の差異が、実際に特定の青色の紙を前にした時、どんな認知の差異を示すかを実験した話と、各国の言語の文法が及ぼすジェスチャーへの影響の話あたりが特に印象的だった。

 

 

  1. 谷川俊太郎詩集(思潮社谷川俊太郎

 

 ぶっちゃけ谷川雁とどっちするか、かなり迷った。でも、「何ひとつ書くことはない」から始まる「鳥羽」ひとつで俊太郎の方を選んだ。きのこ帝国「海と花束」の歌詞と並んで、書くこと、伝えたいこと、なんてない、という深い断念をこのようにさらりと素直に言葉にし得たことに、本当に参ってしまったのだ。また、若い頃はかなり激しい語調で、自分たちの世界に閉じこもって議論している現代詩人たちを批判しつつ、実際自らはもっとも有名な現代詩人としてその後、半世紀に渡り生き得た、という事実も相まって、クレバーかつ、ほんとうに凄いひとだと思う。

 

 

  1. 原幸子《現代の詩人12》(中央公論社大岡信 谷川俊太郎 編集

 

「神様」のような強い単語をさえ詩のなかに置き得る勇気と激情。石原吉郎と並んで「花」という一語を使わせて映えるのはこのひとではないだろうか。身を切るように、幼年時代の心を失った幸福を、「あなた」を、惜しげもなくシンプルに歌い上げる様は、自分の詩作のお手本にもした。本書の収録ではないけれど晩年の詩もとても好き。

 

 

 

以上です。

こうして見ると今年は詩集が大勢を占めています。実際、今年の創作は殆ど詩を専らにしてきたので、それと並行している感じですね。詩の年、と言えるかも。この活動は今後も続けてゆきたいです。一応、現代詩フォーラムのリンクも貼っておきます。

http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=10899

 

そして、来年は小説を読み、書きたいです。で、再来年あたりの文芸誌に出す。

ところで今年は「響け! ユーフォニアム」のおかげで音楽の年でもありました。で、先にノミネートした音楽関連の書籍とは別に、私見の音楽小説TOP3を挙げてみます。

 

 

 

  1. カナデ、奏でます!(角川つばさ文庫) ごとう しのぶ     山田デイジー(イラスト)

 

 未完の児童文学。というか少女漫画小説。主人公、奏ちゃんの持前の明るさで、重い展開も湿っぽくならずにごりごりと解決してゆく様は痛快。それ以上に痛快なのは時おり描かれる音楽描写の微に入り細を穿ちつつもわかりやすいことだ。小説中の人物といっしょに音楽を知る心地よさが味わえる。著者が音大出身と聴いて納得した。あらすじの主である部員のいない吹奏楽部の立て直しの物語はまだまだこれから。是非、続刊に出て欲しい。

 

 

  1. 響け! ユーフォニアムシリーズ 立華高校マーチングバンドへようこそ 後編 (宝島社文庫) 武田綾乃

 

 京アニの手がけたアニメは好きだけれども原作はちょっと評価しきれないでいた。が、本シリーズについて言えば話は別だ。安心のシリーズ物、強豪校が舞台というのも相まって、徹底した練習描写が出て来る。その練習描写そのものの緊迫感、リアリティだけで読むに足るものとなっている。これほどまでに「練習」に紙面と情熱を割いた音楽小説は殆どない。それを土台に、たった一回の本番の緊張感を、この小説で追体験出来てしまう。こうした主軸の見事さのおかげで、枝葉の人間関係のアレコレの逸話も面白い。

 単にユーフォシリーズのひとつ、ではなく、音楽小説史に刻みうる一冊として評価。

 

 

  1. ブラバン (新潮文庫) 津原泰水

 

 上の二冊がまさに当事者たちの青春まっただ中の小説なら、これは大人が青春を回顧し、イマの鬱屈した現在と照らし合わせて、そのどうしようもなさを噛み締めるほろ苦い小説、と言ったほうが適切かもしれない。束の間、ブラスバンド部で共にした青春も、決してコンクールに向けて団結するようなものでもなければ、卒業後の行方も様々だ。けれどそうした群像劇のなかでの逸話ひとつひとつが重なって、苦いリアリティが生まれている。何故だか幾つかの場面が記憶にずっと残っていて、離れない。

 

 

以上でした。ところで今年聴いた音楽のアルバムベストも記載しておきます。順不同で、ひと言コメントを。

 

  1. ムソルグスキー展覧会の絵」;チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第一番」 ウラジミール・ホロヴィッツ

 

         ・チャイコが超絶エモい。独特のガタつくような弾き方が癖になる。

 

 

  1. ベートーヴェン後期ピアノソナタ全集第三巻 マウリツィオ・ポリーニ

 

        ・31番がすごく好き。クールなイメージに反して音色は響きゆたかで鼻歌も混じる。

 

  1. John Coltrane Collection vol.1 ジョン・コルトレーンほか

 

 

      ・冒頭のソロでぶっ飛ばされた。

 

 

  1. LAST HEAVEN'S BOOTLEG thee michelle gun elephant

 

   ・ライブ盤のガラガラ声と少し早い演奏が最高。

      今年はブランキ―とかスーパーカーとか90年代~00年代の邦ロックをよく聴いた。

 

 

  1. サッポロOMOIEDE IN MY HEAD状態 Number Girl

 

   ・やっと良さが分かった。聴くたびに向井の口上、シャウト、このバンドのサウンドに嵌る。

 

 

以上です。

来年、どんな音楽を聴くかはまだ考えてないですが、いい出会いがあるといいな、と思っております。

では、慌ただしくなりましたが、皆さま、よい年の瀬を。

燃える薪を拾う、火から―川端康成『雪国』の基礎的技術の読解―

 

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

 向かい側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、

「駅長さあん、駅長さあん」

 明かりをさげてゆっくり雪を踏んできた男は、襟巻で鼻の上まで筒み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

 

 

 川端康成『雪国』の冒頭です。

 言わずと知れた古典で、いまさら何を、という感じですが、最近この小説を読み、とりあげてみたくなりました。

 小説を読むとき、ただ目の前の文章にひたすら没頭するのは理想ですが、たとえば真っ白い壁を凝視しているのは苦しいように、目線をどこかに集中したり何かに基づいて順繰りに視線を動かしたりする、そのような運動が伴わない鑑賞は苦痛です。音楽で言うなら一定の音が単調に終りなく鳴っているだけのそれを聴き続けるようなものです。ミニマル・ミュージックがこれに該当しますが、たとえば池田亮司氏の音楽ひとつ聴いてみても単調のようでいて微妙なアクセントをくわえているのがわかると思います。単調さという基底が、ごくわずかなアクセントをむしろ強調しているのです。

 このアクセント、小説を読んで思わず、おっと反応する箇所。ただ目の前の文章を追う、という基底的な作業から派生して読解という運動中に別の視点を提供してくれる箇所。そのような「引っかかり」について少し、(できれば肩のちからを抜いた感じで、)お話してみようと思います。

 

『雪国』で有名なのは鏡の主題です。『雪国』のWikipediaにも掲載されています。いまわたしの手もとにある講談社文庫『雪国』はp7からはじまって、鏡の語がはじめて登場するのはp10の最初の段落です。

 はじめに『雪国』冒頭の文章を引用しました。非常に簡潔なリズムです。

 

 

 長い時にわたって、私は早くから寝たものだ。ときには、ろうそくを消すと、すぐに目がふさがって、「これからぼくは眠るんだ」と自分にいうひまもないことがあった。それでも、三十分ほどすると、もう眠らなくてはならない時間だという考に目がさめるのであった、私はまだ手にもったつもりでいる本を置こうとし、あかりを吹きけそうとした、ちらと眠ったあいだも、さっき読んだことが頭のなかをめぐりつづけていた、しかしそのめぐりかたはすこし特殊な方向にまがってしまって、私自身が、本に出てきた教会とか、四重奏曲とか、フランソワ一世とカール五世の抗争とかになってしまったように思われるのであった。

 

 

 極端な対照例として引用したのは『失われた時を求めて』(マルセル・プルースト/井上究一郎)の冒頭です。先刻の川端の文章とはだいぶ調子がちがいます。

 『雪国』に話を戻します。(この時点では名前が明かされていない)葉子について実質上の語り手である島村があれこれ勝手な忖度したあとのp10で突如、以下の文章が展開されます。熟読の必要はありませんからリズムだけ、目で軽く追ってください。

 

 

 もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきりと思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の感触で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。しかしそれは彼が心を遠くやっていたからのことで、気がついてみればなんでもない、向側の席の女が映ったのだった。外は闇がおりているし、汽車のなかは明かりがついている。それで窓ガラスが鏡になる。

 

 

段落が変わってからの初っ端、かなり息の長い文章です。以下12pの途中まで延々と没入感のある文章が続きます。

P11の終わりに登場する、鏡に見立てられたガラス窓の向こうの夕景色が映る葉子と二重写しになって島村が感動する描写なんかは、絵図としてなかなか印象的です。実際、『雪国』のラストに至るまで、葉子が登場するたびに再三強調される絵図です。

また、先の引用で女を覚えている「指」と書かれます。女、とは島村と深い関係にあるこの小説のメインヒロインの駒子のことです。

 指、という具体的な身体の部位は、その後幾度となく描かれる島村の駒子との身体的接触への序奏としてさりげなく効果しています。

他のまわりの文章よりも一段と執拗に、没入感を以て描写することで、読者への注意の促しとしているのです。

 

                                      □

 

駒子の初出はp16で、これも序奏の例として特筆しておきます。

 

 

「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の前に突きつけた。

「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手を引くように階段を上って行った。

火燵の前で手を離すと、彼女はさっと首まで赤くなって、それをごまかすためにあわててまた彼の手を拾いながら、

「これが覚えていてくれたの?」

「右じゃない、こっちだよ。」と、女の掌から右手を抜いて火燵に入れると、改めて左の握り拳を出した。彼女はすました顔で、

「ええ、分かってるわ。」

ふふと含み笑いしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてた。

「これが覚えていてくれたの?」

「ほう冷たい。こんな冷たい髪の毛はじめてだ。」

「東京はまだ雪が降らないの?」

「君はあの時、ああ言ってたけれども、あれはやっぱり嘘だよ。そうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか。」

 

 

島村の指を自分の顔に押しあてる駒子という絵図です。身体的接触を媒介に、すべてを徒労と見ようとする島村に対し、駒子が自身の存在を主張するような描写は後々も事あるごとに繰りかえされます。

たとえばp102に至ると、

 

 

障子を押し飛ばすようにあける音で島村が目を覚ますと、胸の上でばったり駒子が長く倒れて、

(中略)

 

「火みたいじゃないか、馬鹿だね」

「そう? 火の枕、火傷するよ。」

「ほんとだ。」と、目を閉じているとその熱が頭に沁み渡って、島村はじかに生きている思いがするのだった。駒子の激しい呼吸につれて、現実というものが伝わって来た。それはなつかしい悔恨に似て、ただもう安らかになにかの復讐を待つ心のようであった。

 

 

熱、は、じかに生きている思い、へ。

これには東京で妻子がありつつ親の財産で無為徒食の生活をし、年に1度雪国を訪れる島村/借金を返しつつ真剣に仕事に恋に生きる芸者の駒子、という設定の対立が前提とされています。この種類の場面は、しかも幾度となく変奏されることで単なる強調だけでなく、島村の心が「旅行者」の立場から一歩も抜けない、いわば島村→駒子へ向かう力の量が殆ど微動だにしないのに反して思慕の募る駒子、という関係の運動を表現しています。

前述の「指」から派生した身体の接触という要素が、人物設定における対立構造を利用しつつ再三繰りかえされることで、強調されているのです。

 

                        □

 

駒子はこのように身体を強調されて、漸次的に思慕をつよめます。

対する葉子は。

窓ガラスに映っていた彼女は、駒子の妹にあたります。

 

 

悲しいほど美しい声であった。高い響きのまま夜の雪から木魂して来そうだった。(p8)

 

 娘は島村とちょうど斜めに向い合っていることになるので、じかにだって見られるのだが、彼女等が汽車に乗り込んだ時、なにか涼しく刺すような娘の美しさに驚いて目を伏せる途端、娘の手を固くつかんだ男の黄色い手が見えたものだから、島村は二度とそっちを向いては悪いような気がしていたのだった(p11)

 

「駒ちゃん、これを跨いじゃいけないの?」

 澄み上がって悲しいほど美しい声だった。どこからか木魂が返って来そうであった。

 島村は聞き覚えている、夜汽車の窓から雪のなかの駅長を呼んだ、あの葉子の声である。(p47)

 

 しかし葉子はちらっと刺すように島村を一目見ただけで、ものも言わずに土間を通り過ぎた。

 島村は表に出てからも、葉子の目つきが彼の額の前に燃えていそうでならなかった。それは遠いともし火のように冷たい。(p48)

 

「早くね、早くね。」と、言うなり後向いて走り出したのは嘘みたいにあっけなかったが、遠ざかる後姿を見送っていると、なぜまたあの娘はいつもああ真剣な様子なのだろうと、この場にあるまじい不審が島村の心を掠めた。

 葉子の悲しいほど美しい声は、どこか雪の山から今にも木魂して来そうに、島村の耳に残っていた。(p70)

 

 しかし、地蔵の裏の低い木陰から、不意に葉子の胸が浮び上った。彼女もとっさに仮面じみた例の真剣な顔をして、刺すように燃える目でこちらを見た。(p99)

 

 雪の信号所で駅長を呼んだ、あの声である。聞こえもせぬ遠い船の人を呼ぶような、悲しいほど美しい声であった。(p99)

 

「ええ。」と、うなずくはずみに、葉子はあの刺すように美しい目で、島村をちらっと見た。島村はなにか狼狽した。

これまで幾度も見かける度毎に、いつも感動的な印象を残している、この娘がなにごとももなく彼の前に座っているのは、妙に不安であった。彼女の真剣過ぎる素振りは、いつも異常な事件の渦中にいるという風に見えるのだった。(p112)

 

 

以上、少々多いですが葉子登場時の描写を抜粋しました。

初出時から殆ど表現が変わっていません。駒子とは接触がありましたが、葉子と島村はp112で会話をする以外、関係はほぼ進展しない所為もあるでしょう。

幾つかの引用では「真剣」の語も散見されます。

駒子同様、島村との対比ですが、美しい声と刺すように美しい目だけが反復強調されて、殆ど非人間的なうつくしさが葉子に付与されています。

小説のラストの描写で、これが劇的な効果を発揮します。

繭倉で火事が起きたことを聞きつけ、駒子と島村が駆けてゆきます。ここでは火と、天の河(水)とが雪国の夜に混じり合い、その状況設定だけでも美しい。

 

 

「ああっ。」

駒子が鋭く叫んで両の眼をおさえた。島村は瞬きもせずに見ていた。

落ちた女が葉子だと、島村も分かったのはいつのことだったろう。(p146)

 

葉子を落とした二階桟敷から骨組の木が二三本傾いて来て、葉子の顔の上で燃え出した。(p146)

 

水を浴びて黒い焼け屑が落ち散らばったなかに、駒子は芸者の長い裾を曳いてよろけた。葉子を胸に抱えて戻ろうとした。その必死に踏ん張った顔の下に、葉子の昇天しそうにうつろな顔が垂れていた。駒子は自分の犠牲か刑罰かを抱いているように見えた。(p147)

 

 

ふたつ目の引用でも、また同頁でも明示されますが、ここで冒頭のガラスに映った夕景色と重なる葉子という絵図が変奏して再現されます。また、葉子の落ち方は「ふっと女の体が浮かんだ、そういう落ち方だった。」「非現実な世界の幻影のようだった。」と、強調されていた非人間性がここでもあらわれて、それは浄化の象徴の火と共に、上から落ちてきます。さればこそ、この小説の最後の文章は「さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れてくるようであった。」と。

火を経て、上(天の河)からひとの世界に落ちてきたかのように。

「駒子は自分の犠牲か刑罰かを抱いているように見えた。」とは、愛憎や身体の接触の穢れとしての面を前提としています。それを身代わりとして受ける喩と化した葉子は、駒子でさえ持ちえない、まして島村からもっとも対極にある美しいものの象徴として結実します。

 その為の準備として、声と目だけの強調があり、最後までそういう言葉と葉子の関係を不動のものとして繰りかえしてきたことの効果は、実にさりげない、どころか一見すれば稚拙な瑕疵にも映りかねない技術ですが、この小説の核心を育てるに至るのです。

 

                            □

 

一般的に『雪国』は日本の美を叙情的に描いた小説だと言われています。

「哀れ」「徒労」「旅愁」という言葉はたしかに登場します。ただしこれは三人称に擬態した島村の視線から出たもので、いわば強烈なフィルターといっても差し支えないでしょう。叙情の表現ではなく、あらかじめ叙情をあらわす定型を設けたうえで、駒子や葉子の言葉のなかには叙情の定型句をつかってみずから哀れむ素振りは一切ありません。生々しく、真剣で、その場かぎりの生は、むしろ紋切りの叙情を見ようとする視線と喰いちがい、喰い破ろうとしてくる。そのような、彼女たちの「存在している」ことの強烈さが、肉体、視線や声などによってあらわされて、『雪国』を叙情の仮面を被った反-叙情小説と言っても許されるでしょう。

そして、そのような読みを許す為には、いわば火を効果的に燃やす為の組み木が必要となります。設定や、特定のアクセントの強調や変奏といった、上に挙げた基礎的な技術がそれです。

昨今では火を煽ることに真剣になっていたら薪を意図せず組み上げていた、というふうな非構築的性を演出することが国内文学の一部で隆盛しています。それはそれとしていま一度、古典と呼ばれる小説がどのように時の雨に耐えて燃え続ける火であるのかを、組み木の観点から再点検してみるのも無益ではないと思い、このたびの記事と致しました。

 

また機会があればなにか書きたいものです。それでは。

うるさい奴

 年の暮れ。街にしずけさはとぼしい。それは東京の辺境であっても。駅にひとが屯していて彼らに行くところがあるようなのに驚く。彼らの目から目的地は窺えない。この世に生きている人間である以上、行く先などたかが知れている、などと思ってみても無駄で、わたしがこうして慌ただしく言葉を連ねている、そのことも、ただ目を逸らしているだけで、やはり行く先至るところなどたかが知れているのかもしれない。

 窓をたたく風のおとがうるさい。何者かの、あけてくれぇ、という声がかすかに聞こえてうるさい。そいつの窓たたきのおとはいっそう激しさをましてうるさい。がたがたうるさい。

 

 さて、今年読んだ本のうち特に印象に残ったものを10冊挙げてみる。順不同。

 

 

1.『ブルーシート』(飴屋 法水・著 白水社

 戯曲。二〇十三年初演。福島県立いわき総合高等学校の生徒たちによって演じられた。東北の震災の生き残りである事実を、そうでなかったかもしれない可能性をも視野に入れつつ、感傷的でも露悪的でもない、平易だが確実に異化された言葉によって描き出してゆく。だが何より重要なのは、言葉の間隙、音響とか、身振りとか、劇空間の雰囲気とか、役者たちが役名でなく本名でありのままの状況を台詞に乗せているときの虚構と現実の揺らぎとか、それら全てなのだ。

 

2.『遡行』(岡田 俊規・著 白水社

 戯曲論集。岡田俊規が、二〇十四年当時から代表作『三月の5日間』以前まで遡って、その時々で彼が演劇について考えていたことを語り尽くす。だらっとした動きと現代の若者を彷彿とさせる「チェルフィッチュ語り」のテキトーな印象からは想像もつかないような厳密な、身体と言葉の関係における彼の論にこれがプロの凄さか、と搏たれる。なにせ、「舞台と観客の関係を意識しないというのはありえない」「むかしは箸の上げ下げひとつにも厳密な指示を出した」と言っているのだから。この本と競って挙げるのを迷ったのが別役実『ことばの創り方』。

 

3.『ファウスト』(ゲーテ・著 高橋 義孝・訳 新潮文庫

 だいたいある年代以前のドイツ文学に、わたしはさほど良い印象がない。クソまじめな人徳と神の徳の賛美、大袈裟でいかにも「ブンガク的」な形容の数々。予定調和的でひどく単調なプロット。以上がざっと偏見の一覧表。で、そういうのが見事ひっくり返された。もう序盤の、作者と劇場支配人と道化の会話からして面白い。あとはもうファウストメフィストフェレスのひっちゃかめっちゃかの珍道中。ワルプルギスの夜の饗宴には死者も、当時のゲーテの敵までもが登場する始末、キリスト教の神さまのみならず異国の神さまも総出の西欧文化のオールスター戦。最後の神と美徳の掟やぶりの勝利なんてご愛敬。

 

4.『コルバトントリ』(山下 澄人・著 文藝春秋社)

 かねて噂には聞いていた山下澄人。死んだひとがひょっこり現れ喋り、語り手「ぼく」の視点から横ずれした記憶が、突然時間も視点の角度も飛び越えてそこからの語りが開始される。幼い頃の父と母とに出会う。と、こう書いていて、要約は無意味だ。普通の秩序にしたがって書けばありえないようなことが、この小説のなかでは当然のこととしてある。フィクションを立ち上げるとはそういうことだ。それはテクスト内の現実なのだ。現実。それを作為なしにやってのける希有な作家が、山下澄人なのだ。のちに飴屋法水が演劇として上演している。こちらも素晴らしかった。

 

5.『小説、世界を奏でる音楽』(保坂 和志・著 新潮社)

 今年いちばん影響を受けた小説論。静態的構造や細部ではなく、まさに読んでいるとき、その小説でしか立ち上がらないものを重視し、広域的なアルゴリズムから離れてローカルな記憶回路を読み、考え、みる、そのことを解く。すなわち、そこでしかありえない、しかし絶対確実のリアリティ。自分のなかでの小説に対して抱えていた呪縛みたいなものが解かれる契機になったような本だった。

 

6.『現代詩の鑑賞101』(大岡 信・編 新書館

 現代詩におけるおよそ70年代までの主要な現代詩人(及川均や「荒地」の面々~荒川洋治伊藤比呂美まで)と代表的な詩をピックアップし、さらに詩ごとに解説まで付いているという丁寧ぶりで、入門書というに相応しい。自分にとっては大転換をもたらした本。ここから好きな詩人や詩風をみつけて、現代詩の世界に入ってゆくのがよいと思います。

 

7.『雁の夜』(川田 絢音・著 思潮社

 8月の、暑い休みの日。何の本を読んでもうまくいかない気がした。気分を変える為に図書館で借りた『川田絢音詩集』を捲ってみた。「正午の/空は発たない/コップの中にはおびただしい舌が痺れて斃れていく」

 さて、この詩集は現時点で彼女の最新の詩集だ。他にも素晴らしい詩集があり迷ったが、それならばとあたらしいものを挙げた。今年いちばん深く追い、読み込んだ詩人だ。疎外され、流浪する語り手の目を透した、切り詰められた世界観から逆説的に浮き上がる詩情。ひとの世の外にふと垣間見えるアニミズム……。

瓦礫の広がる墓地で/警官が棒をもってなにか探している/長い橋を渡っていくと/対岸の男たちがドラム罐に火を焚いて/口に出さず/壁に頭をぶちつけず/太い息を吐き しずかに身をふるわせている/たがいに争うように煽りたてられた隣人/人はどんなやり方をしても救われないが/わたしたちにそれが必要なのだろう/なにを浴びても/外にものごとはないという度量で/川は外を流れている(長い橋)」

 

8.『炎える母』(宗 左近・著 日本図書センター

 第二次大戦の際、空襲に燃える母を見殺しにして自分だけが生き残ったことへの自責の念から書かれた詩、その詩集。その激しい言葉もさることながら、空襲の渦中、幼少期、母の死後、とめぐりふたたび母が「鰹の丸焼きのように」ごろりと語り手の視点の前に投げ出される、そうした詩集全体の構造のなかを潜るという、アンソロジーではない詩集を読む醍醐味をはじめて覚えた詩でもある。「炎の一本道/走っている/とまっていられないから走っている/跳ねている走っている跳ねている/わたしの走るしたを/わたしの走るさきを/燃やしながら/焼きながら/走っているものが走っている/走っている跳ねている/走っているものを突きぬけて/走っているものを追いぬいて/走っているものが走っている/走っている/母よ/走っている/母よ/炎えている一本道/母よ(走っている その夜 14 一部抜粋)」

 

9.『奔馬』(三島 由紀夫・著 新潮社)

 三島由紀夫は、いま距離を取りたい作家のひとりだ。『豊穣の海』四部作の至るところで横溢するキッチュさと煩悩じみた男女のアレコレへの色目が、つよい言葉で彫琢されていればいるだけ、目を背けたくなる。しかし、この小説にかんしては文句のつけようがなく、挙げた。ところで三島は小説講座のなかでうろ覚えだが、柳田國男の『遠野物語』における霊が木の棒を手にしてくるくる回す、その瞬間のフィクショナルな出来事がリアルに立ち上がる描写を指して、小説の醍醐味だと言っていた筈だが自身の小説においてそれはレトリックの域を出なかった。それがこの小説では、最後の一文をして達成される。主人公ともいうべき勲の、純粋な人物造型(フォルム)が、この小説内で余計な色目を使わせない。挿入される「神風連史話」、政治という現実への接続もありつつ重層化されたテクストは、いま畢竟の達成と感服する。次点『暁の寺』。姫が「本田先生!」と勲の生まれ変わりとして本田に縋る場面は、迂遠な言葉でことを描写する文学よりは、演劇的場面の出現に近い。ここも素晴らしい。

 

 

10.『羊をめぐる冒険』(村上 春樹・著 講談社

 再読した『風の歌を聴け』と迷ったけどこちらで。同時代性というか、描写を読み進むうちに湧いてくる感興、数年ののちにまで残るような何気ない場面の妙を創り出すのが、このひとは本当に上手い。特に本書については、アイヌと北海道開拓にまつわる史書的な記述と、羊との接続、それから死んだ鼠が山奥のコテージに姿を現し、会話する場面などが非常に素晴らしかった。愛おしい、とさえ言いたい。素敵な小説にはこの愛おしさが欠かせない。

《「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさやつらさも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや……」鼠はそこで言葉を呑み込んだ。「わからないよ。」》

 

 以上、妙に長くなってしまった。

 ほか、映画はあまり観ない年だった。代わりにアニメ『響け!ユーフォニアム』に異様にのめり込んだ。この熱はもうしばらく続くかもしれない。10月にY君がユーフォニアムのイベントを口実に遙々北海道から来てくれて、旧友のB君を交えて夜中歓談したのも遠い思い出になってしまった。でも奇妙なことに、いちばん経歴のふるいネット上の友人と、結局いちばん長く交友が続いているというのは。

 詩にかんしては春日線香さんの助けもあり、約二ヶ月に一度、八丁堀で開催している詩の合評会に参加させて頂いている。このほか詩にかんして、友人としても、線香さんには世話になった。感謝致します。私事としてさらに以下、三月にこれも縁で文学フリマの同人誌に短編を寄稿させて頂いた(正直、あまり褒められた出来ではなかった。忸怩たる思い)。8月に戯曲を劇作家協会新人戯曲賞に送り、結果はなく落選した。個人的な実りはあったと思うから、機が熟せばまた書こう。詩にかんしては秋以降、次第に読めるものになってきたと自負している。こちらにかんしては今後も継続したい。わたしは詩人だ。小説家でも作家でも劇作家でも芸術家でもない。その自負を中心点に、エクリチュールを放射してゆく。それはそうと小説は、来年はいままでと違うものを集中して書き、集中して考えたい。でもこういう私事の繰り言を垂れ流していてはきりがない。皆さま、よいお年を。来年もよろしくお願い致します。窓をたたくおとは、いよいよ凄まじくなっております。ドンドンドンドン。あけてくれえ、あけてくれえ、と、これでは近所迷惑だ。耐えられないくらいうるさい。もう窓が割れそうだ。叫び声がちかい。あけてくれえ、あけてくれえ、とうるさい。新年という奴。

はじめてのぎきょく

久方ぶりの更新となりました。

去年の5月半ばから、戯曲を書くか、と唐突に思いつき、ようよう書いたのでここに置いておきます。諸事情で一定期間を過ぎたらリンクのみ削除するかも知れません。

 

https://www.dropbox.com/s/8z8sfppyb9x8p4q/%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%8E%E3%82%BD%E3%82%B3%EF%BC%88%E4%BB%AE%E9%A1%8C%EF%BC%89.pdf?dl=0 

 

日記代わりに私的な話を少し。

そもそも戯曲を手がけようと思ったのはまったく些細な発想からでして、小説を書いていて、まるで小学生の書いたように下手だから、どうにかして巧くなりたい、それなら台詞だけで成立している戯曲を書けば確実に上達するのではないか、という、何だか真面目に演劇に携わっているひとにうち明けたら怒られそうな動機に起因しています。無論、小説 – 地の文 = 戯曲(脚本)の単純な式で成立していないことを、直に思い知ることになりましたが。

 

まず、演劇は俳優によって演じられることによって成立するものであること。去年の6月から東京に住まうことになり演劇に直接触れる機会が格段と増えたのはさいわいでした。文章それ自体として見ると無駄なものであっても、対話として考えると間を与えるのに必要である言い回し、というのがまま生じます。また、言葉は飽くまで耳からの情報が主になりますから、言葉の伝達には音声的な制限が課せられます。

また、演劇には小説や詩と同様、演劇独特の辿ってきた歴史というものがあります。この歴史はかなり長大です。小説なんて足許にも及ばない程です。しかも、歴史的、民族的な背景があり表現様式も分散しています、とはいえここで挙げる演劇ないし戯曲と呼ばれるものは、一応、西洋近代演劇の流れの範疇にあるものですが。この辺は、渡辺守章『演劇とは何か』に詳しく、ベケット、イヨネスコ、ジュネに至るまでの演劇史であればおおむね把握出来ると思います。ここにさらに、日本の演劇の問題――素朴なところでは口語か文語か、等々の事柄も加味されます。

 

話を戻します。じゃあ戯曲を書いて小説上の台詞が巧くなったか、と問われると微妙なところです。現時点で小説を書いていない、というのもありますが、書いているさいの意識としては小説における地の文を書く感覚に近く、また飽くまで口頭にのぼせられる、という意識もあったからで、そうしたことを踏まえて考えると、台詞が巧くなった、というよりは文章がちょっとだけ上達した(かも知れない)と言ったほうが的確な気がします。もっとも、今回は砕けた口語なども多用したので、その辺を今後も反映出来るといいですね。

 また、以下解題のかたちになってしまいますが、言葉の幾つかが本に纏められたり、或いは先に言葉があり、それをなぞるかたちで台詞が発せられる、等々の口語と書き言葉の関係を多少意識したつくりになっていると思います。所謂メタシアターですね。すなわち演じることへの自意識です。題材的にも決して的を外してはいないと思います(結果的に、ややニッチすぎてマイナーなインディーズバンドみたいだと言われようとも気にしない!)。

 この作品を書くにあたって専門的な観点からの助言や参考文献を教えてくれたり、さらには夏頃に書けない書けないと幾度も愚痴っていたぼくを励ましてくれたYさん、心理学、精神分析を扱った映画や小説を紹介してくださったKさんに感謝を。ありがとうございます。あなたがたがいなければ、材料的にも精神的にも、ぼくは書くことが出来なかったと思います。そうして今頃は、苦悩の井戸の底で体育座りをして諦め悪く愚痴を垂れ流していたことでしょう。それから、ここを覗くことはないだろうけれど、自身の体験談を専門的な知見と織り交ぜつつ語ってくださったSさん。ほんとうにありがとう。あなたが身を切るように様々の物語をしてくれなければ、この作品はずっと弱々しく、うんざりするものになっていたことでしょう。といって、現状がどんなにマシなのか、あまり自信はないのですが。

 

 平田オリザミヒャエル・エンデの戯曲『遺産相続ゲーム』の解説で、戯曲の処女作というのは誰しもにとって失敗作、黒歴史になるという話をしていました(厳密にはエンデは『遺産相続ゲーム』以前にも戯曲を書いている。そしてそれは、彼の期待に反してまったく反響がなかった)。だからといって、最初からこの作品を川に棄てることを想定して育てる、なんてつもりはないし、単純素朴に色んなひとの世話になったから、どんなかたちでもいいから少しでも、日の目を見て欲しい、という気持ちは、ぼくにだってあります。このはじまりが、終わりになってしまうなら、それでも。

 

 とりあえず7月頃に応募期間を設けている賞があるので、それにでも投げてみる予定。でも、先の予定とかも色々あるので、この辺で一旦据え置き、というのが今回の意図。なのでまた推敲期間を設けて手を入れる予定です。現状では、これが精いっぱい。台詞だけの作品を、目に風景を思い浮かべつつ読むのはなかなかしんどいかも知れませんが、個人的には気に入ったフレーズとかあれば声に出して読んでみたり、げらげら笑ってくれたりしたら、これにまさる幸いはありません。それでは、また。

短い漂流の後、ふたたび戻り年の瀬となって、それから。

 雨滴の向こうには見慣れた光景がひろがっていました。見慣れている筈なのにどこか感興が去年と異なるのは、ふり解けない鎖の象徴だった景色が、やや懐かしさを帯びていることでしょうか。深緑色の葉も季が移れば枯茶色に色づくように。背後では絶えざるテレビの音や生活音が切れ切れに聞えてきます。ちょうどBS-TBSのアナウンサーが、オスマン帝国ロードス島の騎士たちが降伏するまでのくだりを解説している辺りまでは、何とか聞き取れたところです。そこから先は、この文章を打鍵する音がかき消してしまったので、何も。

 個人的なお話を続けることをもう少しだけお許しください。さて、あまり深くは立ち入らない落書きだらけの、或いはそれすらない隘路や、うらぶれた商店街、山口ないしは四国とを繋ぐ港の渇いた冷たい風などがぼくにとっての親しい街の顔でした。6月に東京へ行くこととなろうとは、渇望していた自分自身にさえ意外でした。その後から今日に至るまでは美術館、劇場、映画館、服屋等々と様々な場所を忙しなくめぐり、また色々な方にお会いしました。遊んでくださった方々にはほんとうに感謝しています。一方で、東京という街の慣れない過剰さに中てられ、浮ついていたとも言えるでしょう。単純に生活の在り方が変化した、と捉えればそれまでですが、今年書いた小説は、まどマギの中-長編二次創作とすさび書きのような短編の計二本だけで、どちらも東京へ越す以前に書いたものです。特にまどマギの二次創作にかんしては、今年はせめてこれを超えるものを書かなければ、という強迫観念に憑かれていたにも拘わらず、何も出来なかったことは悔しいです。現在、戯曲の初稿が終わり、これの推敲に取りかかり始めたところですが、恐らく難航するでしょう(いい加減、小学生の作文レヴェルの会話文からは卒業しろよと呆れるばかり)。それはそうと演劇に触れやすくなったことは都会に出たことの最大の利点のひとつですね。

 そういったなか今年読んだ本のうちで印象に残ったものを10冊挙げようと思います。実は諸事情により読書メーターのアカウントを削除しましたので些か自信のないリストになってしまいますがご容赦ください。

 以下、五十音順に並べております。

 

1.『鏡の影』――佐藤亜紀

2.『3月の五日間』――岡田利規

3.『刺青・秘密』――谷崎潤一郎

4.『詩・評論・小品』――サミュエル・ベケット

5.『女中たち・バルコン』――ジャン・ジュネ

6.『ハムレット』――ウィリアム・シェイクスピア

7.『フェードル・アンドロマック』――ジャン・ラシーヌ

8.『兵士はどうやってグラモフォンを修理するか』――サーシャ・スタニチ

9.『メタシアター』――ライオネル・エイベル

10.『自傷行為の理解と援助――「故意に自分の健康を害する」若者たち』――松本俊彦

 

 半数が戯曲関係であるのが今年の特徴でしょうか。また、その戯曲の構想の為に精神病関連の著作がランクインしていることも。右に挙げた松本さんの著作は実践的な内容ですが、ほかにも自伝的な小説『血と言葉』、日記『卒業式までは死にません』、また現象学的分析をもちいた『分裂病の現象学』等々と、これはTwitterでの教示のおかげもあって色々な本を読むことが出来ました。ありがとうございます。個人的には来年の目標としては批評をもう少し読んでいきたいですね。かつて小説の技術的側面に傾倒した時期があったように、「いかに読み、いかに題材その他を扱い、いかに書くか」を、いま一度見詰め直すことができれば、と思っています。精確に鋭く的を射貫く為には、つよく引き絞ることが必要。一応、それが目標です。

映画では北野武ソナチネ』『HANA-BI』が、

演劇では、

『きれいごと、なきごと、ねごと』(Cui?)

『十九歳のジェイコブ』(新国立劇場

ゴドーを待ちながら』(東京乾電池

『スーパーソフトプレミアムWバニラリッチ』(チェルフィッチュ

辺りが今年、強烈に印象に残りました。

 

 改めてふり返ると、映画、演劇に対してはさほど精力的ではなかった気もします。では来年は頑張ろうと意気込みたいところですが、一方では部屋に引き籠もり延々と半睡状態を貪りたい気もします。客席で引き起こされる半睡はしばしば刺激がつよすぎるので。とはいえ、世界のカレンダーは機械的に捲られ、ぼくらはみずから無理にでも停止させるか或いは機械それ自体の摩耗を待つかしないかぎりは、工場の生産ラインに乗った商品さながらの不自由な生を強いられることになり、それに対抗する手段として日々を無為に流すのでないならば、こうした諸々をつうじて爆弾のつくり方を試行するほかにないような気がしています。などと言いつつ爆弾は不発どころか、まだつくられてもいない始末、と何だか半ば愚痴みたいになってしまいました。

 

 それでは良い年末をお過ごしください。

 そして来年もどうか、よろしくお願い致します。

6月12日――日記からの抜粋

 

https://www.dropbox.com/s/n6n57aj4ggm8w68/%EF%BC%96%E6%9C%88%EF%BC%91%EF%BC%92%E6%97%A5.pdf (PDF版)

 

 しきりに降っていた午前の雨はいつしかやんでいた。その名残、洗われた街々を掠めゆく澄みわたった湿やかな空気は地下鉄で数駅を跨ぎ見知らぬ土地へと降り立ったさい、ちょうど黄昏どきを迎えていた為にいっそう顕著だった。舗装された路面もかすかに濡れていた。木々に至っては雨の記憶をほかの事物よりもずっと鮮明にとどめていて、葉のひとつびとつは泣き濡れたように雫を結んで深緑の匂いに誘われて思わず深呼吸すると肺に溜まった澱みまでが換気された。おかげで疲労で惚けていたところへ束の間の甦生を味わった。濃い色をした葉叢が狭い路地の両脇に並んでいた。いつの時代だよ、と言いたくなるような、学生運動の名残のような立て看板をはじめその他政治色のつよい文句の書かれたパネルなどもあったが、それに目を瞑ればW大学は風光明媚に映った。サミュエル・ベケットの演劇はこの地で展開される。アイルランドの劇団「Company SJ and Barabbas」招聘公演。白壁を縁取る焦げ茶色の木枠や蜜のように艶やかな柱を擁する田舎の教会にも似た、痩躯の坪内逍遙記念館、その手前の空白の場所で。

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(「芝居」の上演された跡地)

 

 どこでも構わないのだ。どんなところでも、ベケットの劇は生成されそうな予感がする。その日上演された「芝居下書きⅠ」は、どこからどうやって逢着したのか自分でもしらない、という盲目のヴァイオリン弾きの男(Aと表記されるが、のちにBによってビリーと呼ばれる。演じるのはBryan Burroughs)と、ようやく家から外出したという車椅子の男(表記はB。Raymond keaneによって演じられる。)のふたりで演じられる。そして舞台指定はベケットの劇の例に洩れず非常に簡潔だ。「町角。あたりは廃墟」。

 開始早々、原作のト書きにない演出が現れる。盲目者Aと不具者Bとが互いに近づいたさい、それぞれ手持ちの杖をまるで鞘当てするように恐るおそるぶつけあう。程なくして、彼らふたりの心理的距離感と大胆さのうら返しの臆病さとをあらわすような間合いで互いの杖は振り回されるが絶妙に当らず、空気を裂くかすかな音が舞台を掠める。それに、さらに細かなしぐさについて言えば、Bが喋るとき、たびたび狡猾そうに相手の顔色を覗き込んだり、にやりと愛想笑いを浮かべたりするのだが、こうした表情の多彩な移ろいを盲人相手にやっているのも滑稽で、不毛だ。

「芝居下書きⅠ」のあらすじは例によって単純。先に記したふたりの登場人物が偶然にも「町角」で出会す。Aが簡易ベンチに座りヴァイオリンをそぞろ弾いていたところ、その音を不審に思ったBがそれに惹かれてやってくる。直にAを見て謎が氷解したあと、――さて、これでもう帰れる。謎は解けたもんな、とBは言う。だが、すぐにはたと車椅子を停めて、奇妙な、というより不器用な提案をする。

 

――もっとも、あんたとおれが手を組んでだ、死がふたりを分かつまで、いっしょにやっていこうっていうんなら、べつだがな。

 

 Bは食べ物を言葉どおり餌にして――具体的にはグリーンピース――Aとの接近を図る。彼はAをうまく口車に乗せ、Aに自分の車椅子を操縦して貰う約束を取り付けることに成功するのだが、すなわちそれは杖を殆ど唯一の頼りにする盲人から杖を手放させることだ。ここでBはAから交換条件による自己犠牲を抽き出した。だが、嗄れた図々しい声に似ず、Bは調子に乗りすぎたあと、ふいに醒めた人間の陥るような不安を交えつつ言う。

――おれのこと、少しは好きになってきたかい? それとも、おれの妄想かな?

――グリーンピース!と、Aは夢見る調子で嘆息する。

 契約は、その外観がいかに自己犠牲や奉仕といった、「愛する者と、愛される者」との関係に似ようとも所詮は強制あるいは惰性的な慣習の産物であって、愛情を起点とした関係とはなり得ない。『ゴドーを待ちながら』のポッツォとラッキーの関係然り、『勝負の終わり』のハムとグロウの関係然り。関係の鎖を振り解こうとしても徒労に終わるが、さりとて改善の兆しもない距離感覚に延々と囚われている苦しいこの一対の関係は、『芝居』にも適用されている。とはいえ、AはBの車椅子を押す為に杖(原作ト書きでは、ヴァイオリンと乞食銭を容れる用の皿)を置いて、あぶなっかしい足取りで、Bの車椅子の背後まで手探りしながら行く。ここで盲人が杖を手放すことのリスクは言うまでもないだろう。そうして、「やみくもに」車椅子を押すAに対して、Bは――とめろ!と喚くが、Aは――サービス!サービス!と誤った方向へと奉仕の精神を発揮する、その結果、怖れ苛立ったBは持っていた杖を大きく振り回し、背後のAをしたたかに打ち据える。直後、Bはみずからの為したことへの激しい悔恨に襲われて独言する。――これでやつを失っちまった。おれを好きになりかかっていたのに、おれはやつを殴っちまった。やつはおれを置いてゆくだろう。おれは二度とやつに会わないだろう。おれはだれにも二度と会わないだろう。おれたちは、二度と人間の声を聞くことはできないだろう。

 Bの悲痛な懺悔のなかに、「愛されて愛し得ぬ男」であるベケットの分身としての側面を垣間見ることは困難ではない筈だ。子宮のなかで微睡んでいた頃の記憶があると公言していたベケット。そして難産、墓場を目指しての苦しい旅路。そもそも最初から間違っていたのだ。先述した語群をもちいるなら臍の緒との繋がり方自体からして悪く、繋がり方――車椅子のBが幾らAを愛し、Bから愛されることを欲そうとも、肝心要の最初が経済的なものであるならば杖を手放してまでの盲人のサービス精神に富んだ自己犠牲も雇われ人夫の気前のよい仕事ぶりにしかなり得なず、まして過剰な愛に対して暴力的な応答でしか報い得ないBのような性質の人間がこうした愛を求めること自体が頓挫を運命づけられており、すなわち二重の意味で失敗するほかない試みだったのだ。失敗についてのベケットの執着は、画家にして彼の親友ヴァン・ヴェルデにかんする記述を一読してみれば納得されるだろう。一方、ベケット自身といえば、つよく愛しながら性質の違いの為にしばしば激しい衝突と葛藤を引き起こした相手は、母親だった。

 

――やってくれよ、ビリー。そうしたら、おれは帰る。そしてまた古巣にへたりこんで、こう言うさ。これが人間の見おさめだった。その最後の人間をおれは殴り、やつはおれを助けてくれた。……心の中に愛というやつの切れっ端を見つけて、おれは仲直りして死んでいけるってわけだ。

 

 

 Bにふたたび近寄る為、Aは音を立てろとせがむ。そこでBは言う。

 

――ちょっと待った。あんた、無料奉仕ってわけじゃないだろう?つまり、なにか条件があるんだろう?

 

 だがAは無言のまま甲斐々々しく、Bの脚にかかっているブランケットを直してやる。こいつは驚いた、と言うときのBは完全に自分が先刻提出した交換条件のことを忘れている。

 

この場合、方式は問題ではない。とにかく、変形が起こったのである。(中略)われわれは、昨日が存在するがゆえにいっそう倦み疲れているだけではない。われわれは、すでに別の存在なのだ。もはや、昨日という災いが起こるまえのわれわれではないのである。…

 

 先の引用はベケットの若き頃に書かれたプルースト論からのものだが、こうした「変形」と「断絶」はベケット作品の至るところに現れており、『芝居』では、Bに頓挫した、あるいは頓挫するしかない愛によって結ばれた関係をふたたび錯覚させてしまうぶん、この変形はより傷ましい。そうして、――こいつは驚いた!というBの台詞のあと、BはAの手を取って引き寄せ、まるで頬摺りでもするみたいにして、忘却から生じた無償の愛の似姿を、あぁ……という幸福そうな溜め息混じりにわずかのあいだ堪能する。だが、ベケットの文章の比喩にも頻出する動物の例に洩れずベケットの登場人物に更正や陶冶といった事柄は、彼自身が『プルースト論の』なかでジッドとその信奉者を皮肉って、習慣を陶冶せよと言うことは鼻風邪を陶冶せよと説くことと同じくらい意味がない、と言ったように意味がない。ひと頻りBの頼みごとを聞いたあと、ふとAはBの足もとで膝をついたまま、もうじき夕方じゃないのか、と訊く。対してBは言う。

 

――さあさあ、ビリー、立てよ、あんた、ちょっとお荷物になってきたぜ。

 

 時間の遷移による「変形」がたとい同一性への攪乱をもたらそうとも、だからといって人間が善良になるわけではない、というよりベケットの登場人物たちは『名づけ得ぬもの』のように手や足、目といった身体の部分を恣意的に切り棄てようとも、なお「私」から逃れることは出来ないという軛に囚われており、それは『芝居』においても同様だ。Bは、Aに親切にして貰ったさい、次の台詞を口走る。――もういいから、立って、おれに何か頼めよ。しかしその舌の根も乾かぬうちに、Aが耳を澄ませたいから静かにしてくれ――ベケットは幼い頃からあらゆる音を聞き分けられた、こうして彼は自分の特質や思い出を芯に各人物を捏ね上げる――という哀願に、Bは激しい癇癪と意地の悪さで応じる。彼はAのもといた折りたたみ椅子のうえにあったあらゆるものを奪ってずらかったらどうなると思う、と唆す。杖でAの背中をからかうように突いていると、突如としてAが身を翻してBの杖を奪う。立場の逆転。視点を少しばかり変えてみれば、この劇は相互の杖の奪い合いという連鎖的な営為の一部始終と観ることも可能だろう。その為に、経済関係は象徴的にもちいられたのだと。そして、AはBの頭上で杖をびゅんと振り回したところで周囲のライトはふっと消え、光のなかにあった登場人物たちは影へと沈む。ふたりの役者の背後でまだ雨に濡れてうな垂れた花の色が際立っていた。

 6月12日の日記と称して、いま6月22日のぼくがこの記述を書いている。この日記はすでに虚構と化している。だがそうだとして、誰が一体そうした真実らしさの有する実と虚の境界線の位置に関心を払うだろう。愚直にこんなことを明かさなければ、おそらくは誰もがこの記述を6月12日に書かれたものとして素直に受け止めてくれるだろうし、否そもそもそんなことはどうでもいい筈だ。しかしぼくは?欺瞞を欺瞞と明け透けにしたうえで、なおそれらしく日記を記述するのか?ほら、いま時刻は零時を打って6月23日になった。とはいえ、いまはやはり6月13日なんだ、間違いなく。いや、わからない。もう黙っていよう、退屈な街路どものように、頑なに。そしていっそ筆を折ってしまおう。――クソッタレ。

 

   ……

 

わからん、絶対にわかるはずがあるもんか、沈黙のなかにいてはわからないよ、続けなくちゃいけない、続けよう。

 

   ……

(小休止)

 

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(「言葉なき行為」の跡地。奥は下手、手前が上手)

 

 

『言葉なき行為Ⅱ』と題された無言劇の副題は「二人の登場人物と一本の刺激棒のための」となっており、すなわち精確さを求めるならば『二人の登場人物と一本の刺激棒のための言葉なき劇Ⅱ』と、ぼくははじめからそう書くべきだったのかもしれないが、そんなことよりも重要なのは、叔父のハワードにつれられて、兄ともども少年だったサミュエルが映画館に足を運び、そうして彼が生涯にわたって映画を好んだということにある。スラップスティック・コメディという喜劇の一形式を、その名称だけでも知っているひとであれば、アイルランド大使夫妻をはじめとする観客の目と鼻の先、アスファルトに横長のボール紙を敷いただけの舞台上で展開される身振り手振りの劇が、何から着想を得ているか見当がつく筈だ。

 張り詰めた、薄闇のなかへのわずかのあいだの溶暗の後、ずんぐりした寝袋がふたつ、舞台のうえに横たわっている。そのうちひとつを、舞台横から差し出された棒が何度か突く。突かれたほうの寝袋がもぞもぞと動き出し、やがて緩慢な動作で現れたのは、だらしなく、浮浪者ふうの、こう言ってよければベケットの小説世界にお馴染みの男だ。彼は、まだ夢から醒めていないかのような、目蓋を半ば閉じ恍惚とした表情で、ときおり飛行機の滑空音が掠めるだけの虚空へ向かい両手を合わせる。彼は必ずといってよいほど行為と行為のあいだに奇妙な間を空け、その所為で機敏さに欠けている。ト書きによれば、空白は、「もの思いに耽っている」らしい。だが傍目にはぼんやりとしているようにしか見えない。いたくゆっくりと、億劫そうに服を着る。こうした行為のあいだにも、表題どおり言葉はない。ただ欠伸にも似た呻きが発せられるばかり。その為、客席から立ちのぼる、咳する声や、恐らく当人にとっては秘かに、だが誰の目にも明らかなデジタルカメラのシャッター音、通路を挟んでぼくの隣の椅子で神経質に膝を叩くアイルランド大使夫人の指のかぎりなく無に近い音までもが、否応なく、この劇を構成する「音響」に組み入れられてしまっていたのだった。

「人は舞台上で言葉を発している限りは、舞台という空間に存在できることになるのであり、それを存在論的比喩に仕組んだのがベケットの劇作術にほかならない」と、渡辺守章は『演劇とは何か』のなかでそう述べているが、その理由は引用箇所の前段落で彼みずからが言うように、「舞台上では、原則として、常に一人の人間しか言葉を発することができない」からであり、それもその筈、舞台上で言葉が混線してしまえば、誰が何を言ったのかわからなくなる。そして渡辺氏は、それを「奇怪な言葉の暴力」と呼び、この関係は単に登場人物間にあるのみならず、舞台と客席のあいだにも存在すると指摘している。換言すれば言葉は、それが舞台上で発せられているかぎりは「言葉を発する舞台と沈黙と余儀なくされる観客」という関係を、規定する機能を絶え間なく作動させているのである。けれども『言葉なき行為』では饒舌な装置はずっと静まりかえっている。呻きは、声というよりは音に近い。それゆえ、単に客席から発されるわずかなもの音だけでなく、役者の演じている、起床、両手を合わせ、もの憂げに服を着る……という一連の動作を、絶えず「観ている」ぼくらもまた、期せずして言葉なき行為に参与していたのだった。それは最小の舞台が、最大になる瞬間。

 ぼくはほぼ最前列に等しい席を占めていた。折しも、舞台上の怠惰な男がようやっと服を着終わり、そしてブルゾンのポケットからふいに一本のにんじんを取り出して、観客の笑いを誘ったところだった(『ゴドーを待ちながら』のセルフパロディ)。彼は、その些か薄汚れた人参をゆっくりと口へ運ぶ。そして突如、おえぇっ……という生々しい嗚咽と共に、その人参の破片を地面へと吐き出した。そのとき、彼のくの字に折れた身体は舞台下手から浴びせられている人工燈の所為で、まるで半月のように身体の輪郭と半身とを明るませていた。そして口蓋から勢いよくぼたぼたと垂れる唾液は濁った月の雫。ベケットの得意とする、人間の生理現象への刺々しい揶揄は、奇術のようにその卑しさを崇高さへと転換させていた。すなわち演出家の手は白い手袋を嵌めた奇術師の手のひと翳し。

 男は、またも視線をあらぬほうへ彷徨わせつつもの思いに耽ったあと、舞台上にあって微動だにしないもう一方の寝袋の端を掴み、ほんの心持ちばかり引っ張ったあと、またも緩慢な動作で、先刻の動作を逆再生するかのように服を脱ぎ、ふたたび自分の寝袋へ戻る。そうして朝を迎える。というのも、ベケットには不眠症と、朝寝をする習慣があったからだ。それに、次いでもう一方の寝袋から跳ね起きるように登場する男は、誰の目から見ても朝型の人間だ。

 舞台袖から伸びる棒による三度目の刺激は、まるで目覚まし時計が促したかのような勢いで男を寝袋から呼び出す。起床いちばん、男は大袈裟なしぐさで腕時計を見る。それだけで、すでに男がこの社会では決して誰も表立って滑稽だと笑いはしないが、その実もっとも滑稽な身分であり、そうしてこの劇内では確実に滑稽な役回りであることを察する。彼は歯ブラシを取り出し猛然と歯を磨き、また時計を眺め、またも猛然と――同じ洋服一式をまえにしながら先刻の、思索に耽りつつ緩慢に動作する男とは対照的に――服を着て、もう一度時計に目を遣り、と思うとふいに上着を脱いで――実を言うと、この辺はすでに記憶が怪しいのでト書きに頼っている――上着にブラシをかけ、帽子を脱ぎ、勢いよく髪にブラシをかけ――折しもBryan Burroughsは綺麗なスキンヘッドなので、ここは笑いどころとなった――帽子をかぶり、ブラシをしまい、また時計を眺め、それから上着のポケットから人参を取り出し、それを丸かじりしたと思うと吐き出すことなく、むしゃむしゃとウサギのように勤勉な口の動きで咀嚼してしまったのだった。食事中、彼の目は絶えず虚空の一点に据えられていた。それから、彼ははじめの男と同様、この劇における唯一の労役と言ってもよいかもしれない行為に取りかかる。いまは怠惰な男の寝ている袋を肩に担ぎ上げると、呻き声と共に幾分かそれを舞台の下手から上手へと移す行為。さながら勤労者が職なしの男を支える姿に映ってしまい、ほんの少し前までは怠惰な男の側であったのに、いまやひょんなことから勤労の男の側の人間となってしまったぼくにとっては、この場面は可笑しみと悲しみとが綯い交ぜになった心地をもたらした。……ぜいぜい、と労役を終えた男は軽く息を弾ませていた。それから彼は持ち前の神経質で整然とした性質どおりのしぐさで、最初の男と同様に服を脱いで、それから袋にはいる。最初、舞台下手にあったふたつの袋は、いまはそれより遠く、上手側に移動している。ともかくもこうしたささやかな変形は、日々のうつろいを最小限の形態でしめしている。その変形により、棒は、男を突くのに以前より少々労力と時間を要するようになる。

 だが棒は突く。ふたたび最初の怠惰な男が出てくる。そうして彼は欠伸をして、そう――いつものように虚空に向かって祈りを捧げる。虚空に向かって?祈る先はただ虚無ではないかもしれない。祈りは、自分の眠っているあいだに自分を支えてくれている、彼とは何もかも対照的で滑稽な勤労者に捧げられたかもしれない。そのとき、さながら朝と夜の間柄のような人間同士の互いの要素が過不足なく嵌まり合い、この短い舞台のうえに陰と陽の文様にも喩えうるような整然たる姿が出現する。たとえそうでなくとも、祈る男の恍惚とした表情を最後にスポットライトは消え、忙しない拍手の雨音が、劇という、ひとときの夜の夢の終わりを告げていた。

習作掌編『じゅげむ』

 不定期に更新している身としては前回からさほど間隔を空けずしての更新となりました。習作として掌編を書きました。以下のURLからPDFをDLできます。

 

https://www.dropbox.com/s/35sly5fktab5kmr/%E3%81%98%E3%82%85%E3%81%92%E3%82%80.pdf

 

 今回は準備運動のつもりで割と軽く書いたつもりですので、お時間のあるときに軽く読んでくだされば幸いです。

 先に種明かしをしておきますと、プラトン『国家』が元ネタになっております。

 

 いまは仔細あって戯曲の勉強のほうへと傾いております。そのうち目に見えるかたちで成果を結実させたいですね。

 

 

 それでは、また。