水底のうたかた

たまさかのお喋り

あの坂の向こうは

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記憶は場所に対して様々な変容をほどこす。平凡な光景も時には驚くほどの彩色を帯びて他人の目に映ることもあるし、それは大抵、他人とは分かち合いがたいものだ。小説を読み、ここにはわたしの幼年時代、わたしの童心がある。この小説の人物の苦悩はわたしの苦悩だ、と告白するとき、それは読者が小説の中心地点に一本の錨をおろしているようにも思えるのだが、実のところ、まるですでにたくさんの署名の記された壁に新たにあなたの署名をくわえるようにしてあなたは、小説にあなたの幼年時代などを差し出しており、かくしてあなたを契機として小説のほうが新たな衣装を手に入れ、そして悠々とした足取りでさらなる衣装を求めて行く。小説は口が固いので、あなたの幼年時代のことを誰にも洩らしはしない。小説はあなたから貰った衣装をそっと箪笥に仕舞い込む。あなたの幼年時代や童心は、相も変わらずあなたのなかにしか存在しない。そいつは小説と一緒に外へ出かけたようなふりをして部屋の隅にうずくまったままでいる。小説にかぎらず文章とはそうしたものではないだろうか。慄然とするほど遠く離れた世界で生きる者同士が同じものを共有するには、この方法はあまりにも心許ない。でもぼくは、その心許ないことをこれから為そうとしている。失敗するだろう。何度だって失敗するつもりだ。写真は何かの手助けになるだろうか。それを試してみたい。

 

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誰にも他人に話してもなかな理解して貰えないが、秘かに怖れているものというのがある筈だ。幼いころのぼくは、この平坦な一本道の先が怖かった。緩やかな坂を登り、角をまがることを極度に怖れた。いつしか、ぼくの頭のなかではあの道の向こうには凶暴な野犬がいることになっており、犬の遠吠えを聞くたびにぼくはその存在を予感しては怯えていた気がする。実際、大人たちは言うのだった。イノシシが出る、とか。

 

大人になることの利点があるとすれば、こうした神秘の入り混じった恐怖のベールの正体を剥いでやれることだと考える。それが良いか悪いかはまた微妙な問題だが。ぼくは神秘を破る為に足を進めた、おそるおそる。

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最初の角を曲がった先に現れたのは、地続きというに相応しい光景だったけれども、些か驚きを以てぼくの目には映った。人跡があるというのも驚異だし、予想だにしない花々があることも驚異だった。そしてあたりは静まりかえっていた。風と葉のそよぎだけが響く。ザクロが鬼火のように赤い。

 

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それから、少し坂を登ると山のふもとに辿り着いた。生憎、登山の準備はしていなかったのでぼくはここで引き返した。それにしても、ひとの踏み行った跡の殆どない場所の木々や花々は奇妙に攻撃的な形態や色彩をしている、こんなちいさな田舎の端でさえ。花も戦争をするのだろうか。例えば銃口をいっせいに相手の陣地へ向け、甲高い号令を合図に一斉に火を噴くようなことが?そうだとすれば敵もやはり花々になるのだろうか、それとも鳥や虫なのか。彼女たちにとって現在もっとも関心深い政治的トピックを尋ねてみたい。

 

 

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さて、神秘の踏破を終えたぼくは引き返して人々に散歩の印象や自分の幼年時代に抱いていた迷信について語った。すると聴衆のひとりだった女性が言った。この近隣に育ったから、妹とふたりでよく探索に出ては、あの山奥にイノシシの罠が張っているのも見た。それから、猿も見たことがあるよ、と。野犬ではないけれど幼年時代に抱いた恐怖は間違っていなかった、とぼくは新たな軽い恐怖と共に思った。それから、今度は彼女が話し手になり、幼い頃の荒唐無稽な思い出の幾つかを語ってくれた。彼女は今年の七月に結婚するそうだ。

 

おもしろうて、やがて悲しき東京紀

 

 ぼくに日記を書く習慣があまりないのは出来事の正確な記録よりも、不可視の空気感や途切れとぎれのカットの寄せ集めを、写真を見返すように何度も頭のなかで反芻するのが好きで、それだけで満足してしまうからだ。まして他人に対して自己を記録的な形式で明かそうとは思わない。そんなことをして何になるのだろう。自己を一筋の物語に編み上げる、逃れがたい欺瞞を敢えて犯す図々しさは「ぼくにはない」――こうした断言でさえも気分のもたらす欺瞞の罠にみずから嵌まり込むことになるし、逃れようとすればするほど罠の餌食になるのは火を見るより明らかだ。だからこそ表層、記録に徹する記述が価値を帯びたりするのだが、精査していけばそうした記述のなかにも欺瞞の痕跡を指摘することは可能だろう。それに、一人間の平凡な旅行の記録をそうした慎重な記述で記したところで、誰がいったい得をするというのか。作者か。だったら最初から黙っていればいいものを、という話になる。

 

 それでもぼくがこんなふうに日記みたいな記述を試みるのは東京でお会いしたYさんが素早い筆致で旅行記を書いていて、そのなかに自分の過ごした時間を見つけたとき、記憶は記述の支えを借りてより鮮明に過去の時間を思い出させてくれたからだ。もし、ぼくがこれから書こうとするものが幾分か価値を帯びるとすれば、時間を割いてくれて共にひとときを過ごした人々の記憶を喚起する触媒としてだろうと思っている。それに、そうしたひとときに対するぼく自身の印象が、あなたがたの記憶に、言うなれば一方から見た横顔の真隣に本来は見ることの出来ないもう片方の横顔をつけ加えて、キュビスムの画家の描いた造形物のような様相を帯びることを期待している。時間は多面性から為っており、ぼくらは面のそれぞれを自分の思い出として胸にしまい込む。いま、ぼくは一度はしまい込んだ筈の面をふたたび取り出してあなたがたの前に差しだそうとしている訳だ。保管が杜撰な所為ですでに埃にまみれていたりひび割れたりしているかもしれないけれど、そこはどうか容赦して欲しい。

 

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    (iPhoneで撮影した新宿)

 

2月9日。あまりに期待を膨らませすぎると却って思わぬ弊害に遭って無惨にうち毀されるという迷信じみた思い込みの為に、この旅行については当日が来るまでぼくなりに用心を重ねていたつもりだったけれども、天候はぼくの細々とした用心など素知らぬ顔で荒れ狂い、東京は45年ぶりの大雪に見舞われ、ぼくの乗る予定だった飛行機も欠便になり新幹線を使わざるを得なくなり、おかげで大幅に予定時間に遅れて東京に着いたときは午後の三時だった。事前にKさんと連絡を取り合って、午後の三時に東京の神保町で落ち合うのが当初の予定だったから、この予定の狂い方はぼくにはすごく悲しかった。怒りにも似た苛立ちのさざ波がひっきりなしに押し寄せていた。

中央線の車窓の向こうに雪の名残が濃く残っていた。途中、路に迷ったりした挙句、Kさんたちとは5時頃にようやく神保町でお会いすることが出来た。お久しぶりです、と互いに言った筈だ(すいません、と言った覚えもある)。彼とは一昨年の5月にも会っている。それまでもかなり頻繁にSkypeでお喋りしたりして、決して遠ざかっていたという訳でもなかったけれど、何となくやっぱりこの言葉がいちばんしっくり来る気がして、そのひと言で二年近い歳月の隔たりがようやく埋まった気がした。KさんはKIさんとGさんを紹介してくれた。彼らともTwitterで親しくしているけれど、実際に会うとやっぱり不思議な心地がした。神保町の本屋の多くは店じまいの準備をしていた。ぼくらは開いている本屋を三つくらい適当に物色しつつ時々会話を交わした。時間の経つにつれて互いの口数も少しずつふえたように思う。食事は、ぼくがカレーが食べたいと言ったのでカレーを食べ、それから近隣の、建物の狭い階段を登った二階にある落ち着いた雰囲気の喫茶店へと雪崩れ込んだ。煙草が吸えると知ると、ヘビースモーカーのKさんをはじめとして一同の表情が途端に明るくなった。ぼくも喫んだ。皆、それぞれ際立った煙草の吸い方があり、為人を反映しつつそれぞれに洗練されていた。絶えず室内楽が流れているあいだ、噂話をしたり、アニメの話をしたり、文学や絵画の話をしたり、話題は途切れることなく続いて心地よい時間は過ぎていった。最後にはぼくもあの三人のなかに少しは溶け込めた気がした。だから、次に彼らと会うときは、あの夜の続きを再開するみたいにして快く迎えてくれそうだと、いまは一抹の期待を抱いている。ぼくにとってはこうした特別な一夜も、彼らにとってはちょっとした日常の延長の出来事なのかも知れないと想像すると、それもまた羨ましい。Kさんの一人称や口調がふだんよりずっと砕けていたのが、きっとそのことを証明していた筈だ。そして彼らと会話している最中は、文学や絵画もふだんの肩肘張った厳めしい姿をしておらず普段着のまま、何気ない話の一部を占めているのに過ぎなかった。もちろん、それが彼らなりにこうした分野を自分の血肉としているが故の副産物であることは言うまでもないけれど。

神保町の地下鉄新宿駅前でGさんと別れ、「ではまたTwitterで」と言って、総武線の新宿駅でぼくはKさんとKIさんと別れた。早朝に起きた割には興奮していたのか、ホテルに戻ってから就寝したときは深夜の一時頃だった。それに、ぼくは西洋ベッドの硬いシーツがあまり好きではない。旅行者であることを否応なく思い知らせてくる、疎ましい白い波。

 

2月10日。新宿駅構内で散々迷った挙句に昼食にはありつけず、代わりに駅の周囲を幾度かめぐった為に様々な声と出会すことになった。ライトバンについた拡声器から延々と、緩やかな声で人類が幸福になる為の原理について説く宗教団体の声、福島の動物保護団体が可愛そうな猫ちゃんワンちゃんを助けてください、と募金を募る声、アンケートに答えてくださいと誰彼構わず話しかけるおばさんの声、よろしくお願いしますと連呼するちり紙配りの声、隣を通過する人々の声……。その殆どは聞くひとのことなど構わずに一方的に他人の耳に自分の主張をぶち込むだけの暴力に始終していた。確かに首都らしく、情報の発信地と称されるに相応しい光景でもある。だが相手がグローブを構えていないのに一方的にボールを投げつける行為に対話の生まれる余地はない。いや、対話なんて最初から誰も求めていないのか。でも、老人ホームのサービスにあるという、話し相手のボランティアみたいな存在を、新宿駅前は必要としているように思えた。ぼくはといえば、宗教団体が催眠術にでもかけようとしているような調子で解き明かす、つまり結婚こそ人類が幸福になる必須の条件であり、たとえば信者が一般人と結婚をして子孫を設け、その子孫がまた別な人間と結婚して子を設け、という連鎖を生み出すことでやがて人類から等比級数的に憎しみが滅ぼされるという、ねずみ講と時代錯誤を掛け合わせた内容に気を滅入らせ、ふと笙野頼子の『説教師カニバットと百人の危ない美女』のなかの14ピクセルのフォントで綴られた一文を連想するのだった。

 結婚によってだよ、「救われる」だって。

 それから、ぼくは犬が嫌いだ。だからここぞとばかりに同情を惹くように、ワンちゃんなどと犬が称されているに至っては怒りすら感じる。募金をした人間はきっと犬も猫も嫌いではないことは間違いない。世の中には犬にひとかたならぬ嫌悪を抱く人間もいれば、そうでない人間もいる、それだけの話で済むほどに新宿は人間で溢れかえっている。

 

 小田急線に乗って、ぼくは新国立美術館へと向かった。途端に、どこか地方のちいさな市に似た、頽廃の端緒を感じさせるような穏やかな空気を感じたのには驚いた。代々木上原駅で降りて各停綾瀬行へ乗り換える。降車駅は乃木坂。地下鉄に乗ったつもりでもないのに列車は地下に潜り、メトロからのようにぼくは駅に降り立った。土地が狭いぶん、柔軟な対応を迫られるから、時には言行不一致も起こるのだろう。幼い頃に何度となく視聴した、電車を列挙するビデオの、「大きな街はね、家やビル、お店や道路でいっぱいだから、外に線路をつくらなければいけない」と地上二階を走る地下鉄の映像の解説の文句が、涼風のように脳裡をよぎったと同時に暗黒のなかに列車は呑まれていった。駅から美術館まではほぼ直通だった。

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    新国立美術館 一階)

 

 

 のちに知ったところでは新国立美術館の設計は黒川紀章であるらしい。いかにもモダンな建築物で、硝子と窓枠の規則ただしさと湾曲が好ましい。けれども三階に行くと少々脚が竦んだ。黒川は高所恐怖症でなかったに違いない。地階で昼食を摂った。パスタと珈琲。どこにでもあるような代物だが、地階の休憩用の椅子はアルネ・ヤコブセンの手になる、それぞれスワンとエッグと名づけられた赤い椅子が、食堂はアント(蟻)と名づけられた椅子がもちいられていた。土産物も地階で売っている。ぼくは美術館のショップが好きだ。名の知れたブランドものを漁るのとはまた違った魅力がある。目に鮮やかなデザイン性と実用性との結び目を探す作業だ。皺加工のされた、頑丈な和紙のブックカバーを買った。家族にも少々。

 新国立美術館に足を運んだ目的はメディア芸術祭を覗くことだったが、正方形のホールに作品が壁沿いだけでなく中央部分に点在するように並べられて、人々が自由に作品間を行き来している光景は、それまで格式張った美術館にしか足を運んだことのないぼくにとって、軽い衝撃だった。カメラを構えているひともいる。作品の幾つかは撮影を許可されている。

 

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    (メディア芸術祭入口付近)

 

 

入口を歩いてすぐ右手に、四本の背の高く細い水槽のような塔がある。透明な塔のなかには海藻が揺らめくように磁気テープが落ちてゆき、時間の経つごとに下層がたわんでほんとうに水草のような姿をしている。海藻は塔の先端に取り付けられた、まるで古い映写機の部品のようなモーター式原動車の回転によって規則的に吐き出されている。『時折織成-落下する記憶-』と名づけられた作品は、周囲の人々には頓着することなく粛々と歯車を回転させてゆく。ぼくは他の作品を眺めている。『それでも町は廻っている』とか、『ジョジョリオン』のパネルをまえにして、評価の定まり切った過去の作品をアーカイブ化することと、現在進行形でかたちづくられている作品を厳選して漫画誌上以外の場所に展示することとの隔たりについて考えている(無論、この要約した意見は後付けに過ぎない。当時のぼくは眼前の作品についてしか思いめぐらせていない)。突如、そいつは唄い出す。テープが落ちきった途端、車輪はものすごい勢いで逆回転しテープは巻き上げられ、ベートーベンやだとかチャイコフスキーとかの音楽の断片をまるで生前の走馬燈を再生するかのようにがなり、ぼくは大勢の人々と同様に塔のまえへと駆け出した。論語の「鳥の将に死せんとするや、其の鳴くや哀し。

人の将に死せんとするや、其の言ふや善し」という言葉をふいに思い出しながら、では人工塔の将に死せんとするや、其の音や如何に? などと思考を彷徨わせたりして。でもテープが巻き上げられたあと、ふたたび車輪はもとの動作に戻りテープは規則的に落ちる。見守る人々の環が徐々に崩れ、ぼくもその場から去る。だが同じ音楽は二度と鳴らない。少なくとも、ぼくの滞在していた時間の裡では。

 様々の戦争の悲惨さを伝える作品。兵士や武器商人、ボランティア団体などの証言を集めて展示したブースや、iPadで無人機による攻撃を受けた地域の俯瞰写真をインスタグラムに掲載したもの。だが、『時折織成』とは殆ど真反対の壁側、出口にかぎりなく近い半ば解放された一室に置かれた体感可能なインスタレーション『Learn to be Machine | DistantObject #1』は、こうした遠い海の向こうの惨事を享受するぼくらの体験そのものに批判的なまなざしを投げかける。スクリーンには大写しになった人間の顔が映されている。どうやら作者の顔であるらしい(これは操縦者の顔が映されるのか、と問う老人に案内係の女性がそう答えているのを聞いた)。スクリーンの中央にふたつの瞳が位置している。スクリーン手前にはトラックボールが置かれている。これを操作すると、スクリーンのふたつの瞳が動く仕組みになっている。順番待ちしているあいだに、ぼくは自分なりにやりたいことがあった。それを実行する。目を閉じたりひらいたりする。思いのほかボールを何度も回転させなければいけない。まばたき。目を瞑る。左上方を見る。ぼくは満足した。スクリーン上の瞳の向こうには幾多の作品が並べられていた筈だが、ぼくらは好きなものに対しては目を開き、見たくないものについては目を閉じる。どんなに情報がふえても、こうした身体と直結した反応は変わりないし、限界はそこにある。もちろん、それは作品の一解釈、しかももっとも単純な解釈にすぎないのだけれども。

 

 新宿に戻り、伊勢丹メンズ館を見物する。煌びやかな洋服の王国、といったところだ。ぼくにとっては夢の世界、とはいえ夢と喩えるには随分と産業的な世界だ。でもDiorやLANVINの服はやっぱり目を瞠るように美しく、その魅力にはあらがえない。意外にもジョン・ローレンスサリバンが良かった。ブランド名は伝説のプロボクサーに由来している。創始者の柳川荒士自身、元プロボクサーだ。ぼくは柳川の写真を雑誌で目にしたことがある。サングラスを装着し、肩幅のひろさよりは長身ぶりが目立ち、その所為で彼のつくる服は体格に恵まれた人間に宛てられたものだろうという先入観を抱いたのだった。つまりデザイナー基準の服だろう、と。ところが意外にもミニマルなデザイン、しかも豪奢で(照明の効果もあったと思う)綺麗なテーラリング。縁遠いと感じられたものが一挙に「着てみたい」に変わった瞬間だった。

 伊勢丹について言えば地図を殆ど頼りにせずたどり着けたのだから、新宿駅に辿り着いたとき、自分が迷うなどと夢にも思わなかったのだけれども見事に遭難してしまい、挙句には入場券をわざわざ購入する羽目に陥ってしまった。もしテロを起こすなら、毒ガスを撒き散らすのが有効だろうと、ぼくは歩きつつ夢想した。とはいえぼくは自分の苦境を爆破したくて仕方なかったのだが……。

 

 夕刻の、新宿の雑踏に混じってホテルに戻り体勢を立て直したあと、予定通りYさんとBさんとの待ち合わせ場所に行く。互いにネット上での付き合いは結構ながい筈だけど、実際に会って話すとなると少し緊張する。Bさんとは以前にも会っている。東京が地元のBさんの案内で洒落た雰囲気のバーに行き、飲みつつ会話する。時間が経つにつれて少しずつ余計な緊張は消えて開けっぴろげな会話になってゆく。ぼくも、そこそこ飲んだつもりだったけどYさんもBさんもそれ以上に杯を重ねるペースがはやくて、おいおいまじかよと思いつつ、ぼくはジントニックアイリッシュウィスキー、ミスティアシャルトリューズを飲んだ。そういえばYさんのブログに曰く、今回の三人は「傍から見るとなぜこの三人が?」というものだったと書かれていて、まさにその「なぜ」の部分がいまのぼくらそれぞれの立ち位置の違いを象徴していた。でも「集まった」という事実と時間のまえには些細なことだ。ぼくらはよく喋り、よく飲み、よく笑い、互いを煽り、けれど最後にはYさんの言ったように「結局、何のかんのと言いつつ互いにリスペクトし合っている」という結論に自然と落ち着いた(重度の音楽好きのYさんらしい表現だと思った)。無論、これは逆接を孕んでいる。それは自己がそこに安住することを赦さないことだ。自分で言うのも難だけど、あの一夜でいちばん煽られなかったのはぼくだったものの内心では、このままではいけない、今年は殊に停滞していたし、ぼくがいちばん呑気に構えている場合じゃないんだよ、とつぶやいたりしていた。それでも、例えばYさんがぼくの書く小説に触発されて自分も書こうと思う、と言ってくれたことはすごく嬉しかった。ゼロの人間にもまだ使い途が残されているらしい。ぼくはといえば、YさんもBさんも、自分の書いた小説を必ず読んでくれることに感謝している。ふたりともよき読者なのだ。瓶に入れた手紙でさえ、誰かの手にとどくのを期待して海へと浮かべる。そして受け取ってくれる人間のいるかぎりは、可能なかぎりは、ものを書きたいと思う。最後には藻屑に帰すとも。ぼくはこの段落で些か自分のことを語りすぎた気がするけれども、ここまで書いてさえまだあの場の会話を再現するには舌が足りない。やがて、あの場は言葉にできない無形の記憶となってぼくらの胸のうちに透明な痕跡を残しとどまり続けるだろう。この場だけにかぎらず、前日のKさんたちとの会合も。すべての良き出会いがそうであるように。

翌日に用事のあるというBさんと別れて、ぼくはYさんに頼んで深夜の三時近くまでつき合って貰った。あのときのぼくはふだんよりいっそう子供じみていたと思う。でもYさんは快く承諾してくれた。日付も間もなく変わろうかという時刻になっても、駅前で唄ったりヴァイオリンを演奏し続ける男たちがまだいた。ぼくらが現在を夢見ていたあいだ、彼らは明日を夢見ていた。いずれにせよ等しくぼくらは駅前に屯する、おもしろうてやがて悲しき酩酊者にすぎない。翌日、下着のシャツ(ユニクロヒートテック)にスキニージーンズ、裸足にスリッパという碌でもない恰好でホテルのチープな朝食をしたため、10時にチェックアウトしてぼくはかりそめの宿りを失い東京における根無し草に戻ってしまったのだった。

 

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    国立西洋美術館

 

 

10月11日。上野駅の改札はひとでごった返している。まるで食糧難のさなか配給切符を一刻もはやく品物に替えようとしているかのように、銘々切符を手にして。ぼくらは即刻、時間のあまりを欲しがっている。一秒でもいいから。それと快適な空間と冬の空気! 国立西洋美術館前には雪がところどころに塊となって積もっていた。ル・コルビジェによって設計された方形空間の庭先にも白い小山が横たわり斑を為していた。幾つかの彫刻が寒空に晒されている。もっとも目を惹いたのはロダンの地獄の門だ。実際に目の当たりにするとその厳めしさに驚く。そして門の向こうは? ただこの世界があるばかり。それはそうと、地獄の門を飾っているのはただ「考える人」ばかりではなく、実に様々な人間の姿がある。こと切れる女性をかき抱いて嘆く男性の姿さえある。ぼくは恥ずかしながらこの作品を詳細に分析する目を持たないが、後に調べたところ親切にも概説が載っていた。

http://collection.nmwa.go.jp/S.1959-0045.html

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    (オーギュスト・ロダン『地獄の門』)

 

 

モネ展を観る。かなりの人数が押し寄せている。最初は殆ど身動きが取れない。モネも若い頃の作品は西洋の伝統に倣い、遠近を強調するように遠方へ消える道を配し、そして周囲の木々や人間を描いている。が、やがて次第に遠近は消え、事物の輪郭はただ色彩の為だけにあるように描かれる。例えば下に掲げた展示作品のひとつ、『国会議事堂、バラ色のシンフォニー』にしても、もはや事物があり空があり河があり、というよりは夕刻の色彩だけがあるかのようだ。

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    クロード・モネ『国会議事堂、バラ色のシンフォニー』)

 

 

 モネだけではない。同時代の、彼とは違う表現方法をもちいた画家の絵も並べられ、モネとの差異が際立つように配置されている。点描法のスーラ、「レアリスム宣言」のクールベ、「すべては丸と三角と四角から成る」と構図に異様な執念を燃やしたセザンヌ、激しい色彩のゴッホ等……。展示作品はいずれも豪華で数もかなりのものだったから、ぼくも流石に最後のほうでは疲れてしまった。もし東京を拠点にしていたら前半と後半とに分けて観るのもいいかもしれない。とはいえ、ぼくは旅行者だ。

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    (ジョルジュ・スーラ『グランカンの干潮』)

 

 

 上野駅で蕎麦を食べたあと、ふたたび美術館へ戻り常設を観た。こちらはひとも少なく鑑賞しやすかった。主に15、16世紀のキリスト教美術が集められている。つまり人間ならざる者の表現から、現在の伝統を為す人間の表現への移行期を捉えている、という訳だ。かなり見応えのあるものだった。

 三時半を目途に鑑賞を切り上げ電車に乗って羽田まで行き、飛行機に搭乗し往路はあんなにもトラブルに充ちていたのだから復路もきっとひと騒動あるに違いない、最悪墜落するかもしれないがたのしい旅行の直後に死ぬならそれはそれで、と悲愴な覚悟を決めたりもしたのだが予想に反して何事もなく着陸してその後、列車に乗って自宅まで帰った。車窓から覗く光景は妙に虚ろで、建物は密度に乏しく、車道を照らす橙色の明かりが闇に浮かんでは背後に消え、浮かんでは背後に消えた。寂しい情景を見遣りつつ、なぜ帰ってしまったんだろうと思った。ほかに家がないから。夢のような時間も泡沫と消えゆく。

 

 そして結局、ぼくは何の為にわざわざ自分の旅行をこうしてテキストエディタのうえに再現しようと試みたのだろう。他人の記憶を触発する媒介を提供する為だけにこんなことをしたのではないことは明らかだ。たぶん、充溢した時間を「後日」という空虚さに喰い荒らされるのが耐えがたかったのだ。時間が経てばそうした空虚も空虚とさえ感じなくなる日は来るだろう。とはいえ、こうして汚す必要もなかった紙面をやたらに埋めて幾分でも充たされた日々の名残を取り戻そうとした試みも役に立ったかは疑わしい。つまりは、いましばらくは、抜け殻のまま。

 

 

 2014/02/16

最期には、孤独な舞踊

 

 今年最初の更新になります。ほんとうは年末に掲載する予定で、草稿には年の瀬の挨拶とか書いてあったのですが諸事情により間に合いませんでした。まあ別に期限があるものでもないですが。

 主に、最近観たまどマギの映画について考えたことをちょっとここに書き記してみるつもりです。いわば単なる雑談ですが、改めて自分のなかで考えを整理し、具体的なかたちにとどめて置きたいと思います。

 

「無から有を造る」とは、一般に創作に対して使われる比喩です。しかし実際、創作物がほんとうに無から造られているのではないことは、多少ものに触れた経験を持つ人なら誰でも知っていることでしょう。過去の作品を下敷きにして生まれた傑作は少なくありません。『劇場版・魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語(以下、「叛逆」の略称を、アニメ版については「本編」の呼称を使います。)』も、そうした作品の列に加えてよいかと思います。そして、これからお話しすることは比較作品論のようなものになると考えてください。(※この記事を書いた現時点で「叛逆」のDVD等はないので、台詞等はうろ覚えだったりしますが……。)

 

「叛逆」には踊りを示唆する演出が多数登場します。登場人物それぞれのたっぷり時間をかけた変身シーンや、異空間映像の端々に映る、複数の影絵の女性たちが踊る姿、オープニングの映像など、挙げれば相当数にのぼるでしょう。生憎、画像や映像で実際にそれをお見せすることはいまの時点では出来ないので、気になる方はふたたび劇場へと足を運んでください(などと書いているうちに私の地域では放映が終了した模様)。

 さて、結論を言うと、この作品の底流を伝っているのはチャイコフスキーの三大バレエであり中でも「白鳥の湖」は最も重要であると言えるでしょう。

 残念ながら私は「白鳥の湖」しか観たことがありません。ほかのふたつ、「くるみ割り人形」、「眠れる森の美女」は未見なので現状は詳しく語る資格を持ち合わせておりません。なので、この論は最初から不完全であることを期しています。だから、雑談。とはいえ物語の視覚的な演出のみならず、プロットの骨格にまで喰い込んでいるとなれば、「最重要」という断言もあながち誤りではない筈です。

「叛逆」を「白鳥の湖」と照合したさいにおける映像と展開の調和は、同じように参照先を母胎として持つ幾多の作品に劣らず秀麗で、それがこの映画の魅力のひとつでもあります。

ちなみにチャイコフスキーの三大バレエがいかに演出に関わっているか、という考察は「ぐらっじ☆ぱんでみっく」というブログにて詳しく書かれています。リンクを勝手に貼ってもよいものか分からなかったのでここにURLは貼りませんが、気になる方は各自訪問してみてください。バレエの他にも登場人物各自の変身時のモチーフの解説だったり、細かな演出の指摘だったりが為されていて、私も「叛逆」再見のさいはお世話になりました。

 前置きはこのくらいにして「白鳥の湖」の話をしましょう。「白鳥の湖」は初演以来、多くの演出家の手によって色々な解釈が世に送り出されてきました。色々な版があること自体はどのバレエ作品も一様にそうであるのですが、「白鳥の湖」はチャイコフスキー存命時代、不評に終わった初演以降、実に多くの版がつくられている作品のひとつで、初演とは真逆の結末に終わる版も、いまや一般的に広く認知されています(と、言いつつ私はそのことを最近まで全く知らず、最初に観た「白鳥の湖」で王子と白鳥が悪魔を打ち倒した結末に仰天しました)。

 私が今回観たのはヌレエフ版です。なぜヌレエフ版かと言えば、悲劇に終わる版で、まともなDVDのやつがそれくらいしか見当たらなかったから、という酷く俗な理由がひとつ。根気強くリージョンの合致している海外版を探すべきだったかも、と思いついた時にはあとの祭り。しかし偶然ながらヌレエフ版は「叛逆」と比較するに相応しい要素を備えていました。

 ヌレエフ版は「白鳥の湖」各版のうちでもことに幻想的要素が強く、中でも最大の特徴は序盤の場面と末尾の場面にほとんど同じ演出がもちいられていることにあります。つまりはループ構造を持っているわけです。

 そうした次第で以下、ヌレエフ版「白鳥の湖」に透かして観たときに「叛逆」、ひいてはまどマギ本編がいかなる様相を現わすかを書いてみたいと思います。進行については「白鳥の湖」の構成に則って第一幕から順に述べてゆき、第四幕で幕を閉じる形にしたいと思います。

 

 

第一幕

《宮殿。椅子に腰をかけた王子ジークフリートがまどろんでいる。彼の夢の中では、美しい姫が不気味な怪物にさらわれていった。家庭教師によって、その夢はさえぎられた。今日はジークフリートの誕生日、これから宴が催されるのだ。打ち解けたムードは、彼の母である王妃の登場で一変する。王妃は、明日の舞踏会で花嫁を選ぶように息子に命じる。母の言葉を聞いて、王子は憂鬱に沈み込んでしまう。「まだ恋も知らないのに結婚なんて……。」宴に集う人々は彼の心など知る由もない。家庭教師は王子を諭し、国王の努めの何たるかを言い聞かせる。王子は孤独だ。重苦しい現実から逃れようとでもいうように、王子は一人湖へと向かう。》――「パリ・オペラ座バレエ 『白鳥の湖』付属解説より引用。」

 

 上に引いた解説のとおり、序盤は白鳥・オデットが現われ、それを追う悪魔ロットバルトが彼女をさらう夢にまどろむ王子がうなされるところから始まります。そして家庭教師ウォルフガングに揺り動かされ、王子はようやっと目覚めるのです。ここで悪魔と家庭教師は同一人物によって演じられ、家庭教師は悪魔の仮の姿であることが示唆されています。

 物語の起点を夢が担うのは、本編で主に鹿目まどかを通じて序盤に登場する大事なモチーフです。しかし夢の中でお姫さまがさらわれる、となると、まどか以上にそれに相応しい人物がいます。何故ならその人物は、自分の生きた時間を何度でも夢に帰しては、ふたたび目醒めているのですから。

ここで王子ジークフリートを演じるのは暁美ほむらです。その理由は追々明らかにしてゆくつもりですが、まどマギ本編は実質、ほむらから始まっているという見方も可能です。

 悪魔にして家庭教師の役を演じるのは当然、キュウべぇ。そして白鳥・オデットこそ、鹿目まどか

 配役を決定したところで次の問題は、この第一幕をどのようにまどマギという物語に対して割り当てるか、です。ところで本編序盤でも「叛逆」序盤でも共通している要素がふたつあります。ひとつはキュウべぇの正体が明らかになっていないことです。特に、本編でほむらが「みんなキュウべぇに欺されている」ことに気づくのは最初の時間遡行でまどかを救うのに失敗したあとになってからです。それまでの彼女がキュウべぇをどう捉えていたか、本編では詳述されていませんが序盤のまどかやさやかたちがそうだったように余り険悪な関係ではなかったと推測するのが妥当かと思われます。何より彼(?)は魔法少女の候補者や入門者にとっての案内役も勤めています。

さながらウォルフガングがジークフリートに国王の役目を言い聞かしつつ導くように、キュウべぇがただの少女である暁美ほむらに対して魔法少女の役割の何たるかを逐一解説し、契約を迫る光景を想像することはさほど難しいことではない筈です。本編序盤に鹿目まどかを再三にわたって勧誘していたのと同様に。また、まどかは本編で何度もキュウべぇから潜在能力の素晴らしさについて言及されますが、ほむらが普通の少女だった時分、恐らく彼女も才能を嘱望されたであろうという推測も成り立ちます。

「叛逆」においても同様の重ね合わせが成立しています。「叛逆」のほむらは彼女の記憶状態がどうであれ、確かに「繰り返し」の只中の起点にいるのですから。いわば第一幕は、「叛逆」の序盤が本編ほむらの転校直後の状態と相似関係にあるがゆえに、二重の参照を被っています。

 とはいえ始まりがなければ、その後の「繰り返し」もあり得ない訳です。原本なくして模倣が存在しないように。その意味でも第一幕は本編ほむらの物語に、より合致することとなるでしょう。

 また、敢えて「叛逆」の枠内にとどまらずに本編をも射程に入れたことには別な理由もあります。第二幕、第四幕でそれは明らかになる筈です。

 

 

 第二幕

「夜の湖畔。王子は物思いに耽っている、とそこで不思議な光景を見てしまう。白鳥が美しい娘に姿を変えたのだ。彼女の名前はオデット。悪魔に捕らえられて、白鳥に姿を変えられてしまったのだという。彼女を不幸な運命から救い出すことができるのは、永遠の愛だけだ。オデットに夢中になった王子は、自分こそが彼女を救うと申し出て、明日の舞踏会にオデットを招く。そこで彼女を花嫁として選ぶつもりなのだ。オデットと共に姿を変えられた娘たちの命運も王子にかかっている。夜明けと共に、娘たちは姿を消す。」

 

 薄暗い舞台をほのかな青白い光が包み込む、幻想的な雰囲気のなかで第二幕は開始されます。悪魔に欺され契約させられた鹿目まどかを、「鹿目さんに守られるわたしではなく、鹿目さんを守るわたしになりたい」と、その後幾度にもわたって彼女の呪いを暁美ほむらが解こうと試みる物語――まどマギ本編はそうした側面を持っています。ほむらが王子である所以です。そして「叛逆」の後半において、ほむら自身それらの行為の動機を愛であると明言しています。

また、白鳥は他の踊りにはない独特のしぐさをします。片手を振り上げ、波打たせるようにしてもたげて白鳥の首の撓りや羽のはばたきをあらわす動作ですが、「叛逆」のほむらが変身時にしていた動作はそれと酷似しています。ただ、だからといって正確には、ほむら=白鳥というわけではないのですが。

(http://www.youtube.com/watch?v=k27wb1DTfeM 50分以後あたり参照。ヌレエフ版ではないが全幕収録の模様)

 

第二幕は具体的にどの位置に割り振られるべきでしょうか。採用している物語の枠組みが似通っている為に該当しそうな箇所は多数ありますが、王子と白鳥が永遠の愛を誓うものの、ふいにオデットの目に悪魔の姿が垣間見えた途端、彼女は夜明けと時を同じくして王子のもとから去り、王子は手をかざし名残惜しげにそれを見送る……、というこの幕の終わりにも適っているのは本編12話の最後の場面です。何故なら鹿目まどかは実質上、「円環の理」という概念となりましたが、形式としてはキュウべぇと契約して再度、魔法少女となったのであり呪いは完全に解かれたのではありません。

ほむらの契約の言葉「彼女に守られるわたしじゃなく、彼女を守るわたしになりたい!」、或いはほむらが三度目の一ヶ月を過ごしたさい、今際のまどかの言葉、「キュウべぇに欺される前の馬鹿なわたしを救って欲しい」に対して「約束する! 何度繰り返しても、あなたを必ず救って見せる!」等の愛の誓いは、本編終了時点で決して果たされてはおらず、その果たし得えていない約束を果たそうとする物語である「叛逆」へと続きます。

「叛逆」の劇中で、ほむらが夢に託けてそれとなくまどかが円環の理となったことを示唆したのに対して、まどかが「ほむらちゃんでさえ寂しくて泣いちゃうようなこと、わたしに出来るわけないよ……」と言い、「やっぱり、あなたもそう思うのね。それなのにわたし、何て馬鹿なことを……!」と、ほむらが言葉に悔いを滲ませるやり取りも、呪縛がなお続いていることの証拠のひとつでしょう。

 

第二幕の話はこの辺で打ち止めにします。第三幕はいよいよ「叛逆」が全面的に主題となる箇所であり、同時に白鳥の湖との関連性を読み取る過程のなかでも最重要箇所になります。

 

 

第三幕

「宮廷で舞踏会が開催される。王子はどこか不安げな表情を浮かべている。

花嫁候補の姫たちの国の民族舞踏が次々と披露され、王子は姫たちと踊るが、誰も彼の心をとらえることなどできない。沈み込む王子。そこにロットバルトと名乗る貴族と娘が登場する。その娘はオデットにそっくりだ。悪魔が王子を陥れにやってきたのである。オディールとロットバルトは邪な視線を交わしあい、ロットバルトは周囲を威圧するように踊る。オディールと踊った王子はますます彼女に夢中になって、結婚を申し込む。と、そのときロットバルトたちが正体を現す。王子は自分の過ちに気がつくが時は既に遅い。愛の誓いははかなく破られた。オデットは二度と人間の姿に戻れないのだ。」

 

 華々しい舞踏会で花嫁候補たちが踊りを披露するなかで、王子ひとり浮かぬ顔をする、その映像が見せてくれる構図と「叛逆」のOPとを接続するのは困難なことではない筈です。遊園地を背景にマミ、杏子、さやか、まどかがくるくると踊りを舞うなかで、ほむらだけがひとり立ち竦んでいる、その光景を。

 そして「叛逆」の前半の物語は、自己の創出した夢に溺れていたほむらが、次第に異変に気づき出す中、それら異変に気づくことなく現在の状況に没入している周囲の人物とのあいだに引き起こす摩擦によって引っ張られています。さらには後にキュウべぇによって明かされるように、この饗宴に登場している鹿目まどかは本来ならば円環の理であり、つまりキュウべぇの解説するとおり、居ない筈の人物が居る、という状況になっています。少なくとも、その場にいる鹿目まどかは「本物」ではない訳です。

 こうした饗宴を作り出した張本人であるキュウべぇが種明かしをするより先に、ほむらがその原因を自己の裡に見出す場面は、白鳥の湖と「叛逆」を照らし合わせるにあたっての最重要な部分となります。何故ならそこにおいてこそ、参照先の作品の轍をただ辿るのではなく、参照先とのズレが生じ、そのズレの中に「叛逆」の重要なモチーフが生まれているからです。

 参照先の「白鳥の湖」では版次第で結末が大きくふたつに分岐するのですが、いずれにおいてもこの時点では悪魔ロットバルトの策略に気づくことなく、黒鳥オディールの誘惑にまんまと欺かれ、王子ジークフリートは彼女に永遠の愛を誓ってしまいます。すると途端にロットバルトとオディールはその正体を明かし、王子の白鳥への誓いは儚くも破れて呪いからの解放も泡と消えます。では、王子――ほむらが悪魔――キュウべぇより先にからくりを見抜くことは、どういう意味を持っているのか。

その転換を為す、バスの二階席に乗り込んだほむらの周囲にふくろうが集まってくる映像がありました。先記したブログに曰く、十二時をうつ柱時計にふくろうがとまる、というモチーフは、「くるみ割り人形」のものだそうですが、「白鳥の湖」の悪魔を象徴する鳥もふくろうです。そして、その暗示するところは「知性」。その知性は、怒り狂ったほむらに対してこう語りかけます。

――訳が分からないよ! 君は鹿目まどかに逢いたいんだろう?

――そんな現実をわたしは望んでいない、と応じるほむら。

そしてほむらの詰問。

――まどかを支配しようとしているのね!

――否定はしないよ、と答えるキュウべぇ

 

 キュウべぇがほむらの欲望を利用してまどかを引き摺り出そうとする目論見は、これら応答のなかに充分にあらわれていると言っていいでしょう。そして、ほむらの望みがキュウべぇの見当とは別所にあることも。すかさず第四幕へ。

 

 

第四幕

「王子は自分の愚かさを嘆くが、時は既に遅い。絶望した王子の前に幻のように湖が現れる。悲しむ白鳥たち、その中にはオデットの姿もある。王子はオデットに自分の愚かさを詫び、許しを請う。しかしもはや二人の行く末に未来はない。オデットは悪魔に連れ去られ、王子は意識を失うのだった。」

 

 上記の解説にもあるとおり、ヌレエフ版は悲劇で幕を閉じます。それも最序盤と同様、悪魔ロットバルトが白鳥オデットを浚う、という演出によって。ヌレエフ版がループ構造を持つと言われる所以です。

 悪魔になったほむらの回想のひとつに、草原にふたつの椅子を並べてそのうち一方の椅子からまどかが横ざまに倒れ、(眼鏡の)ほむらがそれを止めようとするもののすんでのところで届かず、そのまま草原に倒れたまどかが液体となり、草原にピンクの飛沫が散る場面がありました。それを見て呆然とするほむら。それを上から別な何人ものほむらが冷然と見つめている。やがて、ぐしゃり、とひときわ巨大なほむらが、まどかが壊れるのを阻止出来なかった自己を罰するかのように潰します。

 高所から横ざまに落下するのは悲劇に終わる白鳥の湖の、オデットの死の場面そのものです。

http://www.youtube.com/watch?v=JI7AsZGnyi4

 ちょっと見づらい上に動きが速いですが、こんな感じで投身。ちなみにこれはヌレエフ版ではありません。

http://www.youtube.com/watch?v=hVO6VGqfWwQ

こちらは映画『ブラックスワン』のラスト。スローなのでこちらのほうがわかりやすい。正確には横さまに身を投げ身体を捻り、背中から着地しています。

 

 美樹さやかに「何故あんたはこの偽りの見滝原を作り出した犯人を暴こうとするの。これってそんなに悪いこと?」と問われたさい、ほむらは「まどかの作った世界から目を背け、偽りの世界に逃げ込む。そんな心の弱さをわたしは許さない」と、私の記憶がただしければこのように答えた筈です。

その心の弱さは、ともするとキュウべぇにつけいる隙を与え、円環の理であるまどかを支配させてしまったかも知れないことは先記しました。そうなれば、「キュウべぇに欺される前の馬鹿な私を救って欲しい」(本編10話)というまどかとの約束を違えることになりますし、何より、これまでのほむらの努力を水の泡にしたでしょう。

この回想の映像は白鳥の湖の悲劇的終局を暗示すると同時に、ほむらにとって最悪の結末を暗示しています。彼女のこれまでの努力やまどかの身を呈した願いが水の泡となり、ふたたびキュウべぇによって魔女の存在する世界に戻ってしまうこと、まどかが絶望すること、まどかが死ぬ、もしくは魔女と化してしまうこと……。それは本編でほむらが何度も目の当たりにした風景であり、「叛逆」のみならず「本編」についても言及した理由もそこにあります。

暁美ほむらキュウべぇの言うように、鹿目まどかにただ逢いたいのではありません。「彼女に守られるわたしじゃなく、彼女を守るわたしになりたい」のです。ほむらが魔法少女の契約を結ぶときの誓いは、「叛逆」の中でもっとも重大な要素であり、「白鳥の湖」と重ねて見る場合もそれは不変です。

だからこそ、ほむらは自己を犠牲にして、まどかがキュウべぇの手に落ちることから守りました。

そして共闘。この辺はお約束感がありますが、メッセレル版やブイメイステル版等、悪魔を倒し大団円で終わる方の版の白鳥の湖では、しばしば群舞の白鳥が悪魔の邪魔をするしぐさを見せることもあります。無論、最後には王子ジークフリートと白鳥オデットの愛の力により、悪魔を追い払う、というもの。その愛の力による勝利は、まどかとほむらが共に魔法の弓をひいてキュウべぇの軍勢をうち倒す場面と重複します。

ここで物語本来の流れを損なうことなく、「叛逆」は白鳥の湖のふたつの終焉いずれともを含み込んでしまいました。こういう目くばせの巧さは流石です。

けれども物語はここで終わりではありません。迎えに来たまどか(円環の理)の一部をほむらが自分のソウルジェムの内側に閉じ込めてしまう場面を経て、胸もとの大きく開いた黒いドレスを着たほむらがお披露目されます。

 f:id:WaterMaid:20140105205222p:plain

 

 

これが黒鳥オディールの衣装(アニエス・ルテステュ)。悪魔となった(ここでキュウべぇがほむらを悪魔呼ばわりするのはジョーク以外の何ものとも思われないのですが、)ほむらの衣装とうりふたつ。ポーズにも見覚えがある筈です。その後、改変された世界の川辺に浮かんでいるのも黒い羽。

改変後の世界で、まどかとほむらの立場は一見すると逆転しています。転入生として先生に伴われ教室にやって来るまどかに対し、ほむらは学校を案内すると申し出ます。

先刻、まどかを白鳥になぞらえたにもかかわらず、単純な構図の逆転後のほむらは白鳥ではなくあくまで黒鳥なのです。単純に言えば、偽物である、ということです。ほむら自身、かつてまどかにそうして貰ったように教室を案内し、会話による気持ちの接近を試みますが違和感を拭うことが出来ず、「やっぱりわたしよりあなたの方が似合うわね」と認めたあと、やがては赤いリボンをまどかに返しています。

しかし偽物というより、ズレを埋められなかったと言うべきでしょうか。「彼女に守られるわたしじゃなく、彼女を守るわたしになりたい」というほむらの願望自体、当時のほむらとまどかの関係の逆転を望むものとなっています。そして彼女はそれを成就する為、何度となく時間を遡行してきました。その過程から生じた苦悩を、ほむらは本編11話でまどかに告白しています。

「まどかにとってのわたしは、出会ってからまだ一ヶ月も経っていない転校生でしかないものね。だけどわたしは、わたしにとってのあなたは……。繰り返せば繰り返すほど、あなたとわたしが過ごした時間はずれていく。気持ちもずれて、言葉も通じなくなっていく……。」

 

 時間遡行のたび、まどかとのあいだに引き起こされるズレは、「叛逆」に至って終に明白となっています。白鳥――まどかの役を引き受けようとしながら、彼女は完全に白鳥になりきれることは終にありませんでした。黒鳥は、願望を叶えようとしながらもそこに必然的に生じた互いの齟齬が具現した姿です。

 最後の場面では夜、ひとつだけ椅子の置かれた草原で、ほむらがくるくるとステップを踏みます。言うまでもなく黒鳥の踊りです。

(http://www.youtube.com/watch?v=TQV-E0ogSMM 1:25分あたりを参照)

(http://www.youtube.com/watch?v=JsjrED4mT6E 1:00分あたりを参照)

 

 そして彼女はまるで白鳥のように高所から身を投げます。それは、ともすれば、まどかが被ったかも知れない運命を、不完全――黒鳥は白鳥ではない。だから白鳥が享けたような王子からの真正の愛もない――ながらも「逆転」したことで、ほむらが代わりに引き受けたかたちになっています。

「彼女に守られるわたしじゃなく、彼女を守るわたしになりたい」

ほむらの願いは、こうした悲劇的なかたちでようやく成就されました。

 

 

 

参照作品を「白鳥の湖」一作に絞った状態で描こうと試みた「叛逆」の線は、ようやく終息を迎えました。繰り返しますが、あくまで他のチャイコフスキーのバレエ二作を未参照のまま書きましたので、後日二作を鑑賞したとき、また違う側面が現れることによりいままで引いた線自体を改める必要に迫られることもあるでしょう。そのさいは喜んで書き直します。ともあれ、今回はここまでということでご容赦ください。

 

この話が少しでも「叛逆」及び「白鳥の湖」を観るさいに何かしら新たなものを付け加えるものであれば幸いです。

ふと空を見上げても、年は暮れ

 朝に回収に来るゴミを夜のうちに出す為に真っ暗な共同ゴミ置き場へ行くと、燈を灯した車が背後を擦過する、気がつけばそんな瞬間にさえふと年の瀬を感じるような空気になっていました。いつの間にか年末です。

 私事になりますが去年に引き続き、今年は小説を三作ほど書きました。うち一作は賞に出したものの力及ばす落選し、あとのふたつはブログに載せるという形式を採りました。読んでくださった方々にはほんとうに感謝致します。出来れば来年も引き続き、つき合ってくださるなら、これ以上の幸いはありません。

 すでに書く予定の作品の輪郭は決定していますが、来年は少し落ち着いた状態で時間をかけて書きたいと構想しています。去年書いた『うつつのゆめ』では、締め切りに追われて推敲もやや半端な状態で出してしまい、幾らか心残りの感があったので。

 

あと、今年は少しばかり映画を観に行ったり、Twitterのフォロワーさんに勧められてアニメを観たりと、割と映像作品に触れることが増えたように思えます。この調子で来年も習慣的に観ていければいいなぁ、と思っています。

 映画ではコッポラの『地獄の黙示録』、ヴィスコンティ『地獄に墜ちた勇者ども』、タルコフスキー『サクリファイス』、宮崎駿『風立ちぬ』あたりが殊に好きでした。だいたい重い雰囲気のものばかり。アニメは今年、薦められて三作ほど観ましたが最終的にはまどマギに圧倒的なまでに心を占められました。最新の映画もすごく良かった。

 

 さて、今年読んだうちのなかで特に印象に残った本の10選を掲げます。

番号は50音順で、優劣を示すものではありません(そういえば去年のランキングでは順番を微妙に間違えて配置していますが、修正が面倒だったので放置してます)。

 

 

1.『悪童日記』(アゴタ・クリストフ

 

物語は〈大きな街〉から、国境付近に位置する〈小さな街〉へと語り手の兄弟が疎開したところから始まる。それまで大事に育てられてきた兄弟たちは、ここで魔女と渾名される祖母のもと、手荒く扱われ、その過程で不条理な仕打ちに耐える為、〈練習〉なるものを通じて世間を生き抜く術を得ようと画策する。盗みや生き物を殺めること、痛みや誹謗中傷に耐えることは勿論、読み書きをも自習する。その過程で取り決められた制約により、この本のなかには心理描写と呼べるものが殆どない。極度に抑制の効いた文章と項目ごとに分割された章のなかにそれぞれ書かれる出来事のなかで、少年たちは非情で不条理な世界を生き抜く為、自身が非情で不条理な存在へと変化してゆく、その過程が傷ましい。絶無の心理描写と相まって魂ごと根こそぎにされた感すら覚えるシンプルな文章は却って心に刺さり、物語は最後まで息を継がせない。

クリストフの三部作の第一作目は簡潔ながら圧倒的。後に続く二作も良質でしたが代表としてこの作品を選びました。

 

 

2.『慈しみの女神たち』(ジョナサン・リテル

 

「わたしは他の人々となんら変わったところのないひとりの人間であり、あなたがたと同じようなひとりの人間なのだ。」そう語る元ナチス親衛隊将校により語られる物語は、繊細で普通で、幾らか知的でさえある主人公がドイツ第三帝国のイデオロギーと戦争の狂気に巻き込まれてゆくさまを、これでもかと言うほど濃密なディティールによって示してくれる。最初は抵抗を以て為していたユダヤ人虐殺も、次第に数字を計上するように彼らを殺すことに慣れてしまう様子や、世に名高いスターリングラードの戦闘の惨状まで、あますところなく。

 上下巻でそれぞれ500ページ超、しかも文字は二段組みで改行もごくわずかと、外見も中身も鈍器というに相応しいですが、読んで損はない一冊です。

 

 

3.『ウォーターランド』(グレアム・スウィフト)

 

 引退間際の歴史教師である語り手が、ふとしたことからフランス革命の授業を中断して、故郷フェンズについての物語を子供たちへと語るところから始まる。それは最初、フェンズにおける代々の水門番という役割を担ってきたクリック一族についての話、ついで実業家であり未来の着想を絶えずわがものにしてきた実業家アトキンソン一族についての話をしながら、教科書的な人類発展史としての「歴史」とは別な、おとぎ話、出来事の繰り返し等々の詰まった歴史が展開され、それはやがて語り手自身の属する〈いま、ここ〉へと接続される。

 歴史、という編纂された一本道に対する分水路を次々に明かしてゆく点で、この作品は非情に批評的な視線から書かれていますが、文章や世界観は土に浸む水のようにやわらかで、読むほどに没頭してしまうテクストです。Twitterのフォロワーさんに薦めて頂いた一冊。当時の自分が「こんな本が読みたかった!」と漠然と思い描いていた像にぴったりと一致してくれたものでした。

 

 

4.『根源の彼方に―グラマトロジーについて―』(ジャック・デリダ

 

西洋形而上学に深く根ざしている音声中心主義、さらには起源の設定によって生じる直線的な階層構造という閉域からの脱却という壮大な試みに貫かれた本書は、声(フォーネー)の特権化と文字言語(エクリチュール)の抑圧という発想が、いかに西洋のあらゆる形而上学言語学の著書を侵蝕しており、またそれがいかにして民族中心主義に繋がっているかを、様々な引用されたテクストの上を横断しながら《差延》、《原-エクリチュール》といった概念を用いて露わにしてみせる。

つまりは西洋形而上学の歩んできた歴史のなかで批判に晒されず、また批判に晒したつもりでその実、陥っていた思考の前提そのものを批判しよう、というもの。それを為すには途轍もないほどの精緻な読解が要求されるが、デリダはそれを見事にやってのけて見せる、その鮮やかな手際には眩暈がする。

 結構、難解でゆっくりと読んだのですが、引用した文章からデリダが思考ひとつひとつ解きほぐし、硬く結び合っている壮大な思考体型の隙間から光が洩れたように思われた瞬間は、哲学書でありながら「美しい」とさえ感じました。何よりテクストと真剣に向き合うことの重要性を教えてくれる本でもあります。

 

 

5.『渋江抽斎』(森鴎外

 

鴎外の史伝小説は、自身が史料を探訪する過程も詳しく記述するのが特徴のひとつであるが、くわえて「渋江抽斎」に興味を抱いた鴎外が調査を進める過程で知り合った、散り散りになっていた渋江家の末裔たちが、ふたたび互いの所在を知って絶えていた音信を交わすようになるところが面白い。史料が増すに従って渋江抽斎を取り巻く世界が記述により立ち上がるのに伴って、鴎外の周囲の人物たちも史料を通じたネットワークを形成し始めてゆく。

医者を生業にし観劇をことに趣味として、人格も立派だった抽斎に鴎外は非常な共感と尊敬の念を抱いていたらしいことは、簡潔な記述からも充分に窺える。しかも「大抵伝記はその人の死を以て終わるを例とする。しかし古人を景仰するものは、その苗裔がどうなったかと云うことを問わずにはいられない。」ということで、抽斎の死以後も筆を進めている辺りにも鴎外の徹底性が感じられる。

『ウォーターランド』もそうですが、昨今の文学の流れとしてある種の歴史小説が潮流としてある現在にあっては先駆を為すと言っても過言ではないでしょう。というか、その辺の時流に乗った小説など及びもつかないものがあります。狷介な文章ではありますが、きちんと読めば鴎外の様々な配慮が見えてくる筈。

 実は高校生のとき祖父の本棚にあって読んだのですが、何が何やらさっぱり分からずに実質、挫折した本でながらく苦手意識を持っていました。ようやく、過去を乗り越えた感じがしないでもないです(笑)

 

 

6.『小説の言葉』(ミハイル・バフチン

 

 作者の単声や詩性を重んずる文体論、或いは、小説の文章を日常言語との《異化》を志向するものとして取り扱うのではなく、むしろ各々の言語につきまとうイデオロギー性、その言語の果てない対話性が生み出す志向の屈折に着目した小説論。詩の言葉、そして権威的、安定的な言葉とは対極に位置する言語をこそ散文の特質として展開される論は非常にスリリング。

 たぶん現在、それなりに真面目に(というと語弊がありそうですが、)まぁいわば文学として小説を書いているひとは、この本に目をとおしているのでは、と思われるくらい必読本なのですが発表当時はあまり評価されなかったのだとか。あまりに時代を先んじていた論考。

 

 

7.『戦争の法』(佐藤亜紀

 

 紋切り型を嫌悪する語り手の語る、虚構と宣言された上での、日本の一地方、N市で起きた戦争をめぐる物語。ソ連を後ろ盾にN市が独立宣言をした途端、それまで日本の法(成文法から暗黙の了解的な法まで)の支配は日常と共に崩壊し、代わりに戦争状態に共通の法、とでも言うべきものが支配する世界となり、当時15歳の少年だった語り手はその世界でやがてゲリラに身を投ずる。

 冒頭から末尾の一ページに至るまであまりの素晴らしさにくらくらした本。たぶん、このテクストについてきちん語るには舞台となったN市(おそらくは新潟県長岡市)の、戊辰戦争時からの明治政府との戦争や、その後の政府のあり方や体制について語り起こす必要がある気もするのですが、まだ読んでいないという方はとりあえず手にとってみてください。「これが日本での出来事かよ!」と痛快さを感じると同時に、日常暗につき纏う「日本」の束縛を感じたりすることと思います。でも最後はそんな想念さえ吹き飛んでしまいました。あまりに没頭しすぎて。

 

 

8.『馬鹿たちの学校』(サーシャ・ソコロフ)

 

序盤からふたりの声の対話からはじまり、脈絡もなく時系列も空想も、歴史上の人物も、何もかもがめちゃくちゃに挿入される逸話は、のちに次第に明らかにされる、語り手が二重人格であり、記憶をうまく再構成できないという設定の為であるが、そこに本書の具体的な反逆精神がある。解説によれば、この本の書かれた当時のソ連体制下において、社会主義レアリスムという公認されたエクリチュールが幅を効かせていたが、いったい再話するにあたって完全にまことらしく唯一絶対の真実を語りうる、などということがあるだろうか。本書は終盤に明かされるように、物語のすべてにわたって、どこかしら「でっちあげ」が貫かれている。むしろこうした欺瞞性を誇張、強調することで逆説的にこの本は社会主義レアリスムの基盤を顛倒させていると同時に、嘘偽りない真実を語り得ているのであるまいか。

 と、まあ一応書いたもののこの本の内容を概説することは非常に困難と言わざるを得ないでしょう。読むのにも骨が折れました。しかし今年一冊、最上位の本を選ぶならこの本を選びます。無垢と反抗と少しの憂愁と、底抜けの明るさと技巧と、たぶんこの本には自分の理想とするもののことごとくが詰まっていた一冊。2012年の暮れから年明けにかけて読み、その後間を置かずに再読しましたが、それからもずっと脳裡から印象が離れなかった、素晴らしい本でした。

 

 

9.『ヘルデンプラッツ』(トーマス・ベルンハルト)

 

家政婦や弟らによって為される、オーストリアを憎悪した偏執家の故人への言及は、語られれば語られる程に印象の分裂が起こり、時系列も無となり、どこか滑稽になる。その一方、故教授への言及から霊に憑かれたように弟や娘たちの口からも次第にオーストリア憎悪、破壊しかない絶望的な世界への呪詛が立ち現れる、が、それによって現れた世界像は愚劣に愚劣を重ねるしか能のない世界であり叫びを圧殺する世界であり、ナチに代表される甦るべきでないものが甦らんとしている世界だ。饒舌な語りの奥には滅びに次ぐ滅びが予告されている。出口はない。

今年読み納めとなった一冊。逼迫した陰鬱な雰囲気のなかでも、登場人物のあまりの偏執狂ぶりと、ベルンハルト節とでも名づけたいような延々たるモノローグはユーモアが含まれています。このどうしようもない世界を読みたくて、予想以上にどうしようもなかった。おかげで最高の締め括りでした。

 

 

10.『ナチ強制・絶滅収容所―18施設内の生と死』

 

ノンフィクション。証言や文章の引用、綿密な調査によって構築されたそれは地獄の見取り図というに相応しい。約12年間のあいだに少なく見積もって550万人が拘留され、うち450万人の人間を亡きものにした周到な手口が、生々しい声と個々人の自意識の痕跡ひとつとどめない、冷たく夥しい数字と共に立ち上がる。また、収容所ごとに施設の間取りを掲載し、抑留から解放までを章ごとに区切って、そこで抑留された人々がいかに虐げられてきたか、それがいかに計画的であったかを知ることが出来る本。

 読んでいるあいだ憂鬱でした。しかしそれ故にずっと印象に残り続けた一冊と言えるでしょう。無論、この本にも瑕疵がないわけではないですが、自身の声はひたすら抑え証言のみを散りばめることで却って強固な虐殺空間が現れるさまは地獄めぐり。この時期に偶然みた、収容所関連の写真も相まって忘れられないものとなるでしょう。

 

 

と、言う訳で以上10冊になります。書評の前半の文章が妙に硬いのは、読書メーターや感想メモからの引用を含んでいるからです。こうしてみるとナチ関連の文献がやや多めな気がします。ランクインこそしなかったものの、最近読んだ『アンネの日記』とかもそうだし。もしかしたらこの傾向はもう少し続くかもしれません。

 あと、今年は一応、日本文学とアメリカ文学の代表的な作品を順を追って読む年、ということにしてはいたものの、アメリカ文学がまったくランクインしていないのには、我ながら驚きました。正直、あんまり趣味じゃないんです。リテルはアメリカ人ですが、『慈しみの女神たち』は当初、フランス語で書かれましたし、実際リテルはベケットブランショからの影響を受けたそうで、これをアメリカ文学の枠に括るのは些か語弊があるでしょう。

 

 

 さて、最後になりましたが皆さま、良い年末をお過ごしください。そして来年もよろしくお願い致します。

習作小説『元・囚人番号44の証言』

 久しぶりの更新になります。今回は小説を書きました。二万字程度の短編です。暇があったら読んでみてください。こちらのURLからPDFをダウンロード出来るようになっています。

 

http://www.kdrive.jp/file/id_2505391862710274.html

 

とりあえず、ざっと弁解めいたものになりますが、少しだけ制作の経緯についてのお話をしたいと思います。いざ小説を書こうとする前に何度か試し書きと称して、冒頭の何行かを埋めてみる、という習慣があるのですが、今回は書いてみた途端、「あ、これはそのまま一篇が出来てしまいそうだ」という予感があり、そして予感そのままにこうして書き上がってしまったという次第です。

 内容を読んで頂ければわかると思いますが、本来ならば題材的に決して取材なしに書きうるようなものではありません。そういったわけで、まだ資料にあたっていない今回の作品は、いわばラフ画とでも思ってください。とはいえ、いかなるかたちでも読んで貰えれば、これ以上の幸いはありません。

 ちなみに本番は10月か11月くらいに仕上げることが出来ればいいなぁと考えております。その際には着想のほか、この下書きの影が殆ど見えなくなる程のものにするつもりでいます。それが贅沢というものでしょう? ――文学は贅沢なものであるというのが、わたしのささやかな認識です。

 

 まだまだ暑い日が続くので、皆さま体調に気をつけてお過ごしください。感想はTwitterSkype越しにでもくださると、励みになります(本番だけを読むぜ、という態度もアリだと思いますけどね)! それでは、またいずれ。

自問自答する小宇宙――ノースロップ・フライ『批評の解剖』

批評は一芸術であるとともに、一科学ではないだろうか。――ノースロップ・フライ

 

 批評とは何か、批評は何の役に立つのか、という問いかけは文学にまつわる歴史が堆積された現在になっても未だに耳にする機会が絶えないのが現状であると言えるでしょう。というより、それは何も批評にかぎったことではありませんが、それにしても批評という分野は殊にこの問いかけに煩わされているように見えます。何故と問うてみるに、この問題を厄介にしているのは、批評には常に対象を必要とするからではないでしょうか。しかも、文芸批評であるならなおさらです。そもそも、文学自体がまるで工業製品に対するようにして「何の役に立つのか」と問い続けるひとが後を絶たないさなかで、さらにその文学を対象にした批評は、二重の疑惑に晒されているわけです。かてて加えて、益体もない空疎な文章が、文芸批評の名を冠することもめずらしい現象ではありません。悪質な文章は、批評という分野の必要性をいっそう怪しいものに見せます。そして結局のところ、文芸批評とは何か? 作品同士を較べて優劣をつけることなのでしょうか。作品のなかにある構造などを解明してみせ、美術館に飾られた絵画よろしく、作品に説明書きを与えることでしょうか。仮にそうだとしても、どうしてこんなにも批評するひとによって方法が異なり、そして幾ら批評を読んでも最初の疑問は解決されないのでしょう。

 ノースロップ・フライの『批評の解剖』は、こうした疑問や混乱の解決という壮大な企図に充ちた本だと言えるでしょう。「挑戦的序論」と題された章のなかで、フライは批評を取り巻く現状に対して次のように述べています。

 

 文芸批評が主題とするものは一芸術であり、批評もまた明らかに芸術的なところを持っている。こう言えば、批評が文学に寄生する表現形式である、つまり既存の芸術に負ぶさった芸術であり、創造力の二次的模倣であるような感じを与えるかもしれない。この理論に従えば、批評家というのは芸術の愛好者であるが、芸術を生み出す力もそれを保護奨励する金もない知識人のことで、かれらは文化の仲買人という階級を構成して芸術家を搾取し、大衆につけ入り、自らの利益になるように文化を社会に流通させる輩だということになるからである。……

 

 いわゆる、創造の出来ない人間がみずからの欠落を埋め合わせるために批評という営為に走るのだ、という考えは、創造という言葉につきまとう誤解と、創造する側を自負する人間たちの勝手な自意識に過ぎないのですけれども、フライによると19世紀を黄金時代として批評無用論、あるいは反批評家的な認識を持つひとがすでに少なからずいて、こうした内容を大音声に撒き散らしていたようです。

 さらにもうひとつ引用。

 

 真の詩学を発展させる第一歩は、無意味な批評、つまり体系的知識構造を築きあげる手助けにはなり得ない文学論を見つけ出し、それを取り除くことである。われわれが概論的批評、随筆的論評、熱狂的イデオロギー批評、その他未発達の主題を概観することから生まれる文章で調子のいいたわごとはすべてこれに含まれる。その特徴が厳選性であれ包括性であれ、「最上」の小説、詩、もしくは作家の一覧表はすべてこれに含まれる。出まかせで、感傷的で、偏見を伴った価値評価や、架空の株式取引所で詩人の株価を上げたり下げたりする文学的おしゃべりもすべてこれに含まれる。……

 

 上の文章が些か激越に感じられるのは、フライが価値判断さえも益体のない、趣味の域を出ない文学的おしゃべりと見なしていることに起因しています。彼の言葉に従えば、単なる趣味の記念碑以上のものになり得るかどうか、その問いかけを自身の批評へ対決させているのです。さらに引用は控えますが、フライは同章のなかで、批評をマルクス主義批評、精神分析批評といった、みずからの立場に文芸批評を従属させようとする方法に異議を唱え、批評分野それ自体の独立を提唱します。

 つまりは、科学を志向しているのです。科学は何のために役立つか、という問いには答えません。換言すれば科学は、科学それ自体を志向する分野なのです。と、同時に各分野は体系化され、厳密にそれぞれの必要性に従って細分化し、しかも他分野からの干渉を受け付けないでいます。文学者や哲学者による科学批判というのがありますが、あれは厳密には科学を用いる人間への批判であり、科学それ自体の方法論を批判するためには、必然的に同じ土俵に立つことが要求されます。そして、フライの試みたこととは、文芸批評をちょうど科学と同様の性質を持った分野として確立することにありました。

 ここにすでに大きな困難が横たわっています。それは、科学の扱う対象というのは価値判断を抜きにしても確乎として存在しているのに対して、文学の個々の対象は、それに対して何の感興も有さないひとにとっては、存在が希薄になるどころか不在であるにも等しいという事実です。存在の程度が鑑賞者次第でいくらでも揺らいでしまう作品群を、いかにして価値判断を介入させずに科学的に再構成し、体系化するか。その壮大な解答が『批評の解剖』における第一エッセイから第四エッセイにわたって示されているのです。

 まず、フライは個々の作品から改めて原理を抽き出すような迂遠な真似はしませんでした。そうではなく、一方で批評における体系的知識構造を形成する役に立たない文学論を排除する反面、体系化に役立つテクストを積極的に利用したのです。その典型としては、アリストテレスの『詩学』。選んだ方法は「分類」です。

 

 第一エッセイには「歴史批評 様式の理論」という副題が添えられています。この章では前述した『詩学』を手がかりに、様々に様式を区別し、個々の様式が覆う範囲を決めてゆきます。たとえば主人公が周囲の人物、環境に較べて明らかに優れているなら、その人物は一個の神であり、物語は神話である。主人公がほかの人間や環境よりも優れているものの、それが程度の差に過ぎない場合、主人公は典型的なロマンスの英雄であり、物語は神話を離れて伝説、民話に由来する文学の領域に属する。……と、まず主人公の程度を、読者との比較によっておおまかに神話からアイロニーの五つに物語の様式を分類することから始めます。さらに悲劇か喜劇かの区分を加えれば、それだけで物語は10の型に分けられる、というわけです。もちろん、すべての叙事詩や小説、戯曲があまねくどこかひとつの枠に収まるということは流石になく、しかし10の要素の幾つかを併せ持ったうえでその範疇内のどこかには確実に収まることになっています。

 分類に劣らず重要なのは、時代ごとの作品の主潮がこの分類のなかで循環運動をしているということです。概説するなら、最初に現れるのは神話であり、端的に言えば聖書やその類いです。次いで、民話や神話の集大成であるところの叙事詩。やがて神々が直接に主人公である時代が終わり偉大なる人間が主人公に代わった時代へと移り――その典型は導き手ヴェルギリウスとダンテと主人公にした『神曲』――ロマン主義の時代に至ると関心自体が神ではなく創造的個人のほうへと向かうようになります。やがてロマン主義が終わり、フローベールリルケマラルメに代表されるアイロニーの時代へ移行すると、そこではもはや創造的個人が幅を効かすよりは、みずからの個性の主張を最小限に抑え、代わりにみずからの芸術を最大限に主張するようになります(われわれに馴染みの深い典型的な、作者の個人的な声を抑えた三人称はアイロニー時代の産物と言えるでしょう)。しかしまたフライによれば、アイロニー時代の作家のなかには神話時代へ回帰しようとする萌芽が見えているといいます。そして、ランボーの唱えた「あらゆる感覚の錯乱」なる語が、古典神話における狂気と予言の結びつきを志向していたと言い、ほかにもイェイツの思想を引き合いに出して、彼がヨーロッパの世界周期の終焉とそれに代わる新たな古典的周期の到来を予見したことなど、また作品から抽き出したものとしてはジョイスの顕現《エピファニー》の技法、生涯を通じて自己の内なる神託に耳を澄ませたリルケの例などが挙げられたあと、この章の幕は閉ざされます。

 第二エッセイの象徴の理論になると、この循環への意識はいっそう明瞭なものとなります。さらにこの章では、フライは文学の定義を試みています。それは実に簡潔で、仮設的言語構造と呼ばれるものです。仮設ですから、ともかくその前提を容認しなければ話は先に進みません。「ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと目を醒ましてみると、ベッドの中で自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた」という一文にしても、「自由の人よ、お前は海を 永久に愛するだろう」という一文についても、それを最初にそれ自体として容認しなければ、その書物を読むという行為は不可能になるのです。この仮設は、何か外部のためにつくられたわけでもなく、その小説、その詩のためのものに他なりません。これを以て、フライは文学を、ひいては無限の仮設である芸術を自律的なものであると見做す論拠とします。

 フライは象徴が決してでたらめに使用されるものではないと断言します。何故なら、詩人を志す者は自分が書く以前に書かれた詩から、詩を学び取るほかなく、しかもみずからも何らかの詩を書くにおいてその内容を伝達するに際して、何はともあれ見逃すことが出来ないのは、それ以前に書かれた詩に登場する象徴という一単位であり、またこの単位が何を意味するか、という約束事を踏まえなければ詩における内容の伝達は不可能だと言うのです。それはまさに言語使用の似姿です。ちょうど、catが「猫」であり、cutが「切る」といった単語と指示内容間にめぐらされた関係が、詩における象徴にも存在すると主張するのです。だからフライにとって独創的な詩人と平凡な詩人の相違とは、前者が後者に較べてより先行作品に対して模倣的であるか否かで決まるのです。そして先行作品たちが営々と築きあげて来た仮設を踏襲した詩は成立の瞬間、それまでに書かれてきた詩と類縁関係を結ぶこととなり、さらにこれら原型《アーキタイプ》と名づけられた、それまでの諸文学作品に含まれていた象徴が用いられることにより、その詩は「全文学の小宇宙、全的言語秩序の個別的顕示」にさえなるのだと、そう語ります。

そしてこの象徴を辿れば、厳然として体系的な文学の一覧表の作成も可能であると言うのです。何故なら、他作品間に共通して嵌め込まれている原型、或いは先に述べた様式等に忠実であるが為にその作品は偉大であり、聖典(キャノン)と呼ぶに相応しい地位を獲得するのですから。このとき、偉大な作品間に横たわる差異を為すものは、象徴の扱い方――技法の差異に収斂します。その象徴の技法もまた、具体的で寓喩的なものから徐々に時代を経るにつれて反寓喩的なアイロニー的技法へと至り、フライがもう一方の文学表現の限界点と位置づけた、寓喩と意味づけの関係の攪乱を狙ったダダイズムシュルレアリスムへと到達するのですが、この移行の過程は先に述べた様式の変遷の、いわば象徴版として対応していることは、納得してもらえると思います。そして、一度達した限界点から先は回帰でしかないと、フライが暗に考えているであろうということも。

 

詳述は控えますが、第三、第四エッセイにおいても、文学がいかに自律的であり、その閉鎖的な小宇宙のなかで互いに影響を及ぼし合い、その様式、要素が循環運動をしているということが記されています。殊に第三エッセイにおける四つの叙述(ミュトス)を四季になぞらえるあたりは顕著でしょう。こうして、この本を読み進むたびに読者に了解されるのは、(「結論の試み」の章におけるフライの言い方を借りるなら)「人生」や「現実」の注釈を超えてそれ自体の自律的構造へと向かう、さながら純粋数学のごとき「文学」の姿であり、かつ「科学」も「哲学」も、さらには街で見かける「広告」でさえも、そこで使用される言語が修辞的な要素を有しているかぎりにおいて、一部「文学的」たらざるを得ないのです。このとき、もはや何が文学で何が非文学、という議論はあまり意味を為さなくなります。敢えて言うなら、何かの機能への従属ではなくそれ自体の為に存在している作品こそが、もっとも混じりっけのない純粋な文学ということになるでしょう。さらに諸作品間の位置づけや優劣の基準に関しては、象徴の項目で少しばかり触れました。そして批評の役割は? ここから先はフライの言葉を直接引きましょう。

 

フィネガンズ・ウェイク』の最終章に関する私の解釈が正しいとすれば、そこに描かれているのは、夢の中で隠喩的同一関係の大群と交わりつつ夜を過ごし、目を覚すと夢のことはすっかり忘れて、仕事に出かけてゆく男の物語である。ネブカトネザル(註:バビロンの王)と同じように、彼は「夢の国への鍵」を使うことができず、自分にはその能力があることさえ悟らない。彼にできなかったことが、そこで読者の課題となる。「理想的不眠に悩む理想の読者」とジョイスは言った。つまり批評家のことである。創造と知識、芸術と科学、神話と概念、これらの間の失われた連鎖を回復しようとする仕事こそ、私が心に描く批評の姿である。

 

 さて、いままでの文章の中で私は何度か「科学」や、「科学的」という言葉を用いてフライの批評の意図を説明したりしました。この「科学」という語は私の発案ではなく、『批評の解剖』の中に何度か顔を出します。もちろん、科学が修辞のおかげを被っているということも(そして文学はそれ自体の為に修辞を用いる言語分野です)。そしてフライが、科学を修辞の一分野と見たのは目聡いと言うべきでしょうか、何故なら科学における言表もまたひとつの仮設の繰り返しであるという点では、文学と相違ないのですから。しかし科学と文学の決定的な相違については、フライは意図的に触れていないように思えます。

 科学における言語も確かに仮設的ではありますが、その根底は価値判断を下さないまでも疑いなく存在する事象であるということです。けれども文学はどうでしょう。はじめに述べたように、文学は、個々の作品は読むという行為を通じて心を動かされる主体的な経験を持たないかぎり、ひとによっては存在しないにも等しいということです。見るという行為よりも遙かに、読むという行為には曖昧さがつきまといます。ところで読むという行為の曖昧さについて例証するために、やはりフライに登場してもらいましょう。といっても、対象は文字ではありません。

 

芸術の生産は、普通生物からとった「創造的」比喩を使って説明されている。人間の生活には、より「低級」な存在のある面を模倣しようとする奇妙な傾向があり、たとえば祭儀は、循環する周年へのリズムへの植物的同調を模倣する。人間の文化も、無意識のうちに生命のリズムを模倣する傾向がある。こうして生ずる文化的伝統は次第に年をとってゆき、何かの大変動がその過程を断ちきり、新たな再出発を促すまで続いてゆく。だから、歴史批評の包括的形式とは、たぶん生物のそれに準ずる文化的年齢のリズムであろうし、また現代における大部分の哲学的歴史家たちも、あれこれの形でそのことを前提としている。今日では、現代は「西欧」文化の「晩」期であり、その青春期は中世であったこと、また現代という時代は古典古代文化のローマ期に似ていることなどが、事実上誰にとっても自明のことと考えられているが、このような考え方は、現代の世界観の必然的範疇の一つであるように思われる。

 

さらにもうひとつ。

 

芸術において進歩するのはその理解であり、またその結果たる社会的洗練である。文化によって益するものはその生産者でなく消費者であって、彼らはより人間的になり、より自由な教育をうけるのである。大詩人が賢明で善良な人間でなければならぬ理由はないし、まずまず我慢できる程度の人間であるべき理由さえもない。しかし、読者の方は、彼の作品を読んだ結果として、人間的に成長すべき理由が多々あるのである。

 

以上の引用が示すもの、それはフライの極端な芸術至上主義の、いわば裏面とでも呼ぶべきものです。はじめの引用にあるのは、循環や象徴といった要素を重視する彼の文学観を反映した、おそろしく素朴な歴史読解であり、そこには自身の位置する時代を「晩」期と臆面もなく断定してしまう視野の狭さが表れています。

さらに第二の引用においては端的に、アーノルド以来の英国の保守主義の伝統のもとに社会と芸術の関係を捉えていることが知れます。そのアーノルドの文学観は、宗教の求心力の衰弱が誰の目にも明らかだった18世紀、そして中心的な階級の担い手が、伝統ある王侯貴族から伝統を持たない、従ってそのままでは求心力を持たない中産階級へと移行していた英国社会の要求に応えるものでした。宗教が求心力を失ったいま、いかにして労働階級を手なずけるか? これが当時の英国中産階級の悩みのひとつであり、その悩みを解消するために文学が利用されることとなりました。何故なら文学は、中産階級の価値観を普遍的な道徳というかたちで労働階級に伝達するのに、非常に都合のよい代物だったからです。くわえて、小説を読むことは、娯楽行為でもあります。「英文学」が最初に課目として制度化されたのは大学ではなく職人専門学校や労働者専門大学だったのも、こうした目論見の為と言えるでしょう。

一方、中産階級にとっては、「伝統を有する古典」を読むことで、中産階級が本来持たないでいた高級な教養を身につけさせること、及びこの階級と「文学を通じて表れたる英国の伝統」とのあいだを架橋する道具として、文学ほど都合のよいものはありませんでした。

フライの、文学を自律的なものと見做す一方で、読者には「文学を通じての成長」を促す意見は、或る面から捉えるなら文学そのものをイデオロギーから切断させてその純粋無垢さを強調し、他方では社会や人々に対してはみずから――の属する階級――が信じ込んでいる道徳や秩序の枠組みに押し入れようという底意が働いているようにも思われます。また、文芸批評と、「批評を通じて露わになる象徴や原型などの普遍的なもの」という構図は、ちょうど中産階級と「伝統」を巧みに架橋しようとしたアーノルドの論の似姿であると言えるでしょう。すなわち科学や客観という、およそ言語を基底とする文学とは相容れないものを批評に適用しようとした結果、却ってノースロップ・フライという個人の観点が浮き彫りとなったのです。紛れもなく、フライの当初の目論見は、価値判断の領域から分かたれた批評基準の確立を目指すという、その目論見の無謀な性質の為に最初から頓挫していました。たとえそれが神話や象徴という、既存の枠組みであってもそれを殊更に重大視し、またほかの要素を閑却しながら法則を有した閉鎖的な体系という一種の際だった形態を構築している時点で、もはや客観的ではあり得ないのです。

しかし、ここで目を転じて問うてみたいのは、フライの目論見の頓挫は、即座に『批評の解剖』という書物の頓挫を意味するものでしょうか?

 

その結論を出すには、最初の問いに立ち戻るのがよいでしょう。批評とは何か?

アイルランドの作家、オスカー・ワイルドは『芸術家としての批評家』という対談形式の評論において、この問題に鮮やかな回答をしています。表題が示すように、ワイルドも批評を先行する作品の付随物としてではなく、芸術の一様式と見做していました。絵画の例を引き合いに出しながら曰く、画家に作品について問えば返って来る答えは線や色彩についての話に終始するだろう。だからこそ、批評家の仕事とは作品を対象にして画家がまったく夢想だにしなかった美を、新たに創造するものである、と、こういった趣旨のことを彼は言っています。これ以上に見事は回答は、ちょっとほかに想像出来るものではありません。この論に従えば、批評家は「理想的不眠に悩む理想の読者」としてひとり目醒めているのでは決してなく、というよりは水中で目をあけるようにして夢のなかに目醒めているのではないでしょうか。批評家はいままでに観た夢を手がかりに新たな別種の夢のほうへと進み、その夢へ向かって誰よりも深く没入する者であるのです。ただ、批評と呼ばれる夢があまりに冴えた外貌をそなえているが故に、拙い解説文や注釈と同程度のものであると誤解されているというだけで。

そして『批評の解剖』はワイルドが言った意味での、批評の要件とでも言うべきものを洩れなく充たしています。それどころか、この書物自身が、批評の何たるかを身を以て示しているのです。

これも序盤に書いたように、『批評の解剖』には批評を科学性と接続し、体系的ならしめようとするフライの信念――いまやそう言うべきでしょう――に貫かれています。その信念は彼の文学観と結びついて、結果的には英米文学を中心とし、果てはギリシャの諸作品や聖書までをも包含している、ひとつの文学の小宇宙を創りあげているのです。その小宇宙は、文学の個々の要素を厳密に細分化しながら、その要素のことごとくを循環と移ろいのもとに統御せしめて、さながら諸作品を素材にした自然秩序の人工的模型をそこに読むことが可能です。たとえフライが何と言おうと、これはひとつの紛れもない創作です。われわれが個々の作品を読むだけでは決して味わうことの出来ない、いわば別種の、批評ならではの快楽がここにはあります。しかも益体のないお喋りとのまがいものであった批評を整理し、区別し、あらゆる悪貨のごとき論難から文芸批評を守らねばならないという要請から出た衝迫は、この書物の存在の必要性をいっそう充足的なものにしているのです。いわば当初の目論見、そして何より内容それ自体が、この批評の成立要件となっています。フライが見た文学の自律性は、未だ多くの人々に受け容れられているとは言いがたいですが、少なくとも『批評の解剖』というこの書物は、それ自体の自律を保っていると言えるのではないでしょうか。そして、批評自体はやはり絶えず、批評とは何か、批評の必要性とは、といった問いに晒される運命を免れられない中で、『批評の解剖』はいまでも鋭い回答の刃を折りたたんで読者が言い旧された疑問と共に頁をひらくのを、いまかいまかと待ち設けているのです。

 

多くの粗製ならざる詩や小説がそうであるように、批評もまた、誰か他人に要請されてから書くというよりは、著者の内なる要請から筆を執るものなのでしょう。そうして書き上がった批評が読者の心を動かすとき、はじめてその批評は今度は世に必要とされるのです。批評とは何か? 批評の必要性とは何か? それをもっとも声高に問い、そして答えを叫ぶものは結局のところ、書かれたその批評、それ自身であると、わたしは思います。

徒然と一年をふりかえって。

次回の記事はベケットの『マロウンは死ぬ』を書こうと思いながら、色々なことに気をとられて書かないでいるうちに、年末を迎えてしまいました。はやくも予告を裏切るのが恒例となりつつあるような。それにしても一年のすぎるのがはやいような、長かったような、という感慨です。

 小説にかんしては去年から書き継いでいた作品を皮切りに計四作ほど書かせて頂いたのですが、個人的にはかねてからの目標だった賞に出すことと(結果は伴いませんでしたが)、また以前から活動の場にしていた同人において寄稿というかたちで本に載せて頂きました。そして、これを機に同人からは完全に手を引くことを決めたりと、両方の意味でひと区切りついた年だったと思います。この一年のあいだ、拙作を査読したり読んでしてくれた方々には、改めて感謝いたします。ほんとうにありがとうございました。そして出来れば、来年もまた引き続きおつきあい頂けるなら、これ以上の幸いはありません。

 

 さて、せっかくなので、今年読んだ本のなかから、小説7作、評論3作の計10作の印象に残った作品を挙げたいと思います。なお順番は五十音に従って並べており、優劣をつけるものではありません。

 

 

1 『アウステルリッツ』(白水社) J.W.ゼーバルト著 鈴木仁子訳

 アウステルリッツの空白の出自をめぐる物語に、語り手は静かに耳を傾ける。それはやがてアウシュビッツの凄惨な記録へとたどり着き……。写真、それに括弧を排除した話法が特徴的なこの作品は、記憶と記録について思いめぐらせながら、同時に語られることなく忘れ去られてしまったものへの深い哀悼に充ちています。小説だからこそ可能な、時間を超えた旅を優しく描いた作品として、またその形式の素晴らしさのゆえに、非常に印象に残った一冊。

 

2 『消去』(みすず書房) トーマス・ベルンハルト著 池田信雄訳

 自分の故郷や家族、さらには国家や宗教と、徹底的にドイツ的なもの、オーストリア的なものを憎む語り手の呪詛が三つの時系列を横断しながら延々と続く。息詰まるような世界観のなかにも、どこかユーモアがあったりするのですが、注目すべきは語り手の呪詛のなかにはどこかしら「誤解」が含まれていること。むしろわれわれは相互に誤解しあう生き物なのだ、ということをそこかしこに示唆する技巧は見事。誇張こそ芸術の要諦なのだ、と嘯くに至ってはもはや痛快です。下巻、復刊しないかなぁ……。

3 『小説の技巧』(白水社) ディヴィット・ロッジ著 柴田元幸

 小説の基本的な技巧を、例文を引用しつつ解説してくれるこの本ほど、記述とその記述がいかなる内容を示唆しているか――ある可塑性を持っているが為に、それは技巧と呼ばれるのですが――その密な関係を平易に教えてくれるものは、ちょっとほかに見当たりません。また、時にはその技巧を要請するに至った文学史的な背景なども交えてくれたりして、実に丁寧な内容です。小説をもっと深く読みたい人、もっとうまく書きたい人には是非お勧めしたい一冊。

 

4 『小説のストラテジー』(ちくま文庫) 佐藤亜紀

 口幅ったい言い方をお赦し頂けるなら、私のいままでの人生のうちで小説の読み方が劇的な変化をこうむった瞬間が二度あります。その一度目は、はじめて小説(らしきもの。いまとなっては)を書いて以降。二度目は、この『小説のストラテジー』に出会ったときです。これほどまでに旧弊的な小説観の解体を迫り、また鑑賞における闘争的側面をピックアップしてみせ、そして記述の厳密な読解と、そこから抽き出されうる甘美な快楽を例示してくれる本には、なかなかお目にかかれるものではありません。ちなみに私は単行本を購入しましたが、喜ばしいことに最近ちくま文庫に収録されました。しかも表紙がすごくかっこいいんですよね、欲しい……。

 

5 『名づけ得ぬもの』(水声社) サミュエル・ベケット著 安藤元雄

 ベケット三部作そのどれもが甲乙つけがたい作品だったのですが、ここでは代表して『名づけ得ぬもの』を挙げます。とにかく語るということは何だ? 語っている俺とは何だ? と疑問のなかに自己を徹底的に解体しながら進む作品。一進一退の問答のなか、語り手が見いだすものとは……。唯一無二という言葉がこれほど似合う作品もほかにないでしょう。

 

6 『ナチュラル・ウーマン』(河出文庫) 松浦理英子

 男、女という区分を超越して純粋な愛を求める容子の一人称百合小説。切ない、をとおり越してすごく痛々しい。松浦さんは同じ題材、モティーフを繰り返し扱う人ですが、それがこれほどまでに洗練と迫力を以てあらわれている作品はないかもしれません。花世×容子は最高です!!!

 

7 『眠れる美女』(新潮文庫) 川端康成

 表題作もさることながら、収録作「散りぬるを」の印象の強烈さゆえにランクイン。たとえば「眠れる美女」においては薬で昏睡した少女、たとえば「散りぬるを」においては語り手である作家と親しかった若い女性ふたりが殺害された不可解な事件をとおして川端が示したのは、彼方にある他者や事件と対比したときに露わになる、個人の思弁の限界です。先に挙げた『消去』が「誤解」によってそれをあらわしているとするなら、川端は「継続」のなかにひそませた「諦観」によって、それをあらわしていると言えましょうか。そして、そういうものを含んでいるがゆえにこの作品は、「ぞっとするほど美しい」。

 

8 『花のノートルダム』(光文社古典新訳文庫) ジャン・ジュネ著 中条省平

 裁判のときを待つ囚人、語り手ジャンを登場させることで、語ることにたいしてメタな要素を持ち込み、その要素を生かして恣意的な物語の歪曲や時系列の自由な横断を可能にしているという点で、この作品の、のちに私が傾倒したヌーヴォー・ロマン小説への影響は決して小さくないと思います。無論、ジュネに特徴的な犯罪者と犯罪賛美は、卑屈な倒錯意識を軽々と超えた美しさがあります。そしてそれを可能にする複雑なレトリック。再読したい本です。

 

9 『新版・文学とは何か』(岩波書店) T・イーグルトン著 大橋洋一

「文学とは何か、それはイデオロギーである。」そう断ずる著者は、マルクス主義者らしく背後にある社会史や批評の潮流などに目を配りながら、「文学とは何か」を定義しようと試みてきた様々な人物や理論をめぐる旅に読者を導く。実にそれは19世紀英国の、アカデミックな意図を帯びた批評からはじまり、哲学へと移りそしてラカン派精神分析やフェミニズム、ポストコロニアリズムまで網羅するこの本は、あまりに図式的であるけれども、とにかく文学史を体系的に学びたい人にとっては非常な好著であるはずです。この本から、気になる人物や理論について学ぶのもよいかもしれません。

 

10 『サロメ・ウィンダミア卿夫人の扇』(新潮文庫) オスカー・ワイルド著 西村孝次訳

 素晴らしいのは、収録作のうち「ウィンダミア卿夫人の扇」、そして「真面目が肝心」の両喜劇。どちらも映画化されています。特に後者の「真面目が肝心」に至っては、登場人物たちの価値観のずれが物語をねじ曲げにねじ曲げ、最後にはものすごい予定調和に終わる、という喜劇なのですが、そこに至るまでの過程の鮮やかさ、可笑しさがほんとうにすごいです。一ページごとに笑っていた記憶が、いまでもありありと思い出せます。ネタバレを恐れて詳細は書きませんが、是非一度読んでみてください。

 

 

 さて、そういう次第で今年の10選でした。個人的にはかなり濃厚な読書体験をした年だったと思います。現代思想やヌーヴォー・ロマンを読むなんて予想も出来ませんでしたし……。これもインターネットのおかげです。来年はもう少し読書ペースを上げたいですね、と思いつつ今年のうちにソコロフ『馬鹿たちの学校』を読み終わることなく年を越しそうです……。読了していたら10選に入っていたかもしれないくらい、これも凄い小説です。

 今年はほんとうにお世話になりました。皆さまの来年がいっそう素敵な、そして恙ない一年になりますように。