水底のうたかた

たまさかのお喋り

小説の巧拙にかんする話

 

Twitter上でとある方と、主に(小説の)文章の上達の程度の測定にかんするやりとりをしました。そのさい、後に書き示してある会話の論点に対する私の回答があまりに不親切、かつ自身の目にも分かりづらかった為、その回答を書き直したところ、想像をはるかに超えて膨大な分量となってしまいました。そこで今回、秘かにこのブログの開設に踏み切った次第です。第一回目から物騒な話題ですが、かような記事は最初で最後になるだろうと思います。さて、本題へ。

 

提出された論点はおおよそ次の三つ。

 

1.      小説の文章において明確な巧拙の基準はあるか。

2.      読者の評価は上達度合いの測定に影響を与えるか。

3.      自分評価だけでは上達の停滞を引き起こすか。

 

まず、1に関しての私なりの回答です。そもそも小説という文章の総体を前にしたとき、その評価を不明確なものにしているもののひとつに、読書の嗜好、のみならず読書において特に読者が重視するものの不確定さがあると思います。それはひとえに、レトリックの凝った文章と、平易な文章との対置に代表されるものだけではありません。例えば演出の問題です。この演出をもたらすものを、ここでは技法と呼ぶことにします。

この技法は、ひとつの明確な線引きをしてくれます。極端な例として、あまり意味のないように思われる些末事についての描写を延々と行う、というのを挙げましょうか。この技法は、例えば一人称の小説ならば、語り手の論理の優先順位の倒錯性を示唆します。或いは異常性癖を表わしているかも知れません。もしくは非常な不安の予感に苛まれて、それから目を逸らす為に敢えて瑣事にこだわっているのかも知れません、素数を数えるように。しかし一方でこのような技法がまったくの無駄とされる小説の類も数多くあります、いや、独断を恐れずに言うなら、そのような小説こそむしろ世に氾濫しているでしょう。そして、その類の小説では、そんな回りくどい方法を選ばずに、むしろ論理を明確にして、そこにあきらかな悲劇性を打ち立てることでしょう。非常な不安に対しては、明確にその非常な不安を描くでしょう。そして最後には感動的な台詞と共に、涙を催すようなハッピーエンドで締めくくる、むしろそういう演出を要求される小説が、一方には確実にあります。そして明確な演出、それもまた確乎たるひとつの技術であり、場合によっては延々と無意味な描写をかさねるより、余程必要とされるのです。もちろん、逆も真ですが。

この演出の必要、不必要を決めるのは作品のコンセプト次第です。そして、いかなる演出も文章によって表されるのですから、技法が文章の性質それ自体と不可分であることは申すまでもないでしょう。文章のコンセプトのことを文体と言います。

ここで、上達の程度を測る明確な評価基準を確立することができると思います。それはコンセプトを実現できたか否かです。無論、程度問題もあって、そもそもコンセプトが不明瞭だった、というのは未だ拙いわけです。上達基準、それはコンセプトの明瞭な確立と、コンセプトに沿って造形できるようになることにあると、私は考えます。この問題はそのまま2にも繋がります。

 

文章である以上、その評価において読者は欠かすことができません。自分では文章をつうじて演出効果や意図を伝えられたと思っても、読者の反応によって技術が不足していたことを知らされる場合もあります(そもそもの基本を指摘された場合は、単なる力不足という話になりますが)。けれども一方で、まったく的外れな批判というものもあります。それは技法や演出方法をまったく理解していない場合であったり、そもそも文章が読めない等と言う場合です。このとき、読者はその本とはまったく異質なものを暗に要求し、その異質な――しかし読者自身の要求、嗜好にとっては好ましいものの範疇ではないという理由で、その作品を排撃しているのです。コンセプトと読者の嗜好が合致せず、またコンセプトを構成する演出をも理解しない読者。厳しい言い方をすれば、そういう読者はその作品を読むのに相応しくない、ということになるでしょう。

2に対する回答は、読者の批判が的を外していなければ、上達程度を測定する基準になり得る、というものです。けれども、この回答には当然ながら問題があります。それは、この批判を受け取るのが作者という、やはり読者と同様に基準や嗜好の曖昧な、ひとりの人間であるということです。

 

この問題の特別に厄介なところは、コンセプトを確立した当の本人であること、そして、だからと言って的を射た矢の精確さを得点で表示するように精確な判断ができるわけでは必ずしもないということです、むしろ作者であるが故に、却ってむずかしいという場合もあるでしょう。

いま現在の、という留保付きで(数ヶ月後には違う意見を抱いているかも知れません)、この問題への私なりの回答を示したいと思います。それは次の二つです。

まず第一に、読書をつうじての自己批判。小説の作者は、また一方で当然ながら読者である筈です。そして選ぶ本は、傾向として自身のコンセプトと近しいものであると推察されます。かつ世に出ている本というのは、そのコンセプトに沿った造形の成功作であることが多い、少なくともそうであって欲しいと思います。すなわち読書は自己批判への意識を念頭に置いたとき、単なる娯楽行為であることを超えて、一種の対話の場、闘争の場になり得ることでしょう。

対話、それはお手本の一例を前にしての反省を促す場です。「君は、君の作品においてもっとかように書くべきだったのですよ、私のようにね」と。

闘争、作品は彼にこう語りかけることでしょう、「君はこの演出に気づいたかい? この技法に? 君のコンセプトを実現する手段はまだ沢山あるのだよ、もっとも、君がそれを発見し、抽出して自家薬籠中のものにできればの話だけれどね」、こんなふうに。

第二はやや心許ないですが、時間です。小説を書き終わり、熱気も次第に醒めた頃になって、夢中になっていた時には気づかなかったみずからの拙さに愕然とする、それはいつでも怖ろしい瞬間です。しかし同時に、この瞬間なくして上達というのは考えづらいでしょう。ましてや、技巧を究めれば、いずれこの瞬間と無縁になる時が来るのか、それはいまの私には分からないことです。ただ、先の二つを怠りなく行い、あるいは受け止める限りにおいて、自己評価がみずからを停滞を追い込むことはないと断言します。これが3に対する答えです。

そして作品が生まれるにおいて、作者が先か読者が先かという問いを投げかけたとき、間違いなく作者が先である筈です。読書のさなか構想するのも、コンセプトを確立しそれに相応しい構成を考え抜くのも。また、それは決して作者の傲慢を正当化するものでもありません。前に書いたように、読者の評価の受け止め方もそうですが、そもそも小説の明確な巧拙の基準として私の挙げた、コンセプトの確立とそれに相応しい造形を施す段階、そこで作者は既に己の力量の程度を問われているのですから。

 

いずれにせよ、巧拙を語り、また語らしめる場は、作品というひとつの厳然たる事実の上においてなのです。