水底のうたかた

たまさかのお喋り

ふと空を見上げても、年は暮れ

 朝に回収に来るゴミを夜のうちに出す為に真っ暗な共同ゴミ置き場へ行くと、燈を灯した車が背後を擦過する、気がつけばそんな瞬間にさえふと年の瀬を感じるような空気になっていました。いつの間にか年末です。

 私事になりますが去年に引き続き、今年は小説を三作ほど書きました。うち一作は賞に出したものの力及ばす落選し、あとのふたつはブログに載せるという形式を採りました。読んでくださった方々にはほんとうに感謝致します。出来れば来年も引き続き、つき合ってくださるなら、これ以上の幸いはありません。

 すでに書く予定の作品の輪郭は決定していますが、来年は少し落ち着いた状態で時間をかけて書きたいと構想しています。去年書いた『うつつのゆめ』では、締め切りに追われて推敲もやや半端な状態で出してしまい、幾らか心残りの感があったので。

 

あと、今年は少しばかり映画を観に行ったり、Twitterのフォロワーさんに勧められてアニメを観たりと、割と映像作品に触れることが増えたように思えます。この調子で来年も習慣的に観ていければいいなぁ、と思っています。

 映画ではコッポラの『地獄の黙示録』、ヴィスコンティ『地獄に墜ちた勇者ども』、タルコフスキー『サクリファイス』、宮崎駿『風立ちぬ』あたりが殊に好きでした。だいたい重い雰囲気のものばかり。アニメは今年、薦められて三作ほど観ましたが最終的にはまどマギに圧倒的なまでに心を占められました。最新の映画もすごく良かった。

 

 さて、今年読んだうちのなかで特に印象に残った本の10選を掲げます。

番号は50音順で、優劣を示すものではありません(そういえば去年のランキングでは順番を微妙に間違えて配置していますが、修正が面倒だったので放置してます)。

 

 

1.『悪童日記』(アゴタ・クリストフ

 

物語は〈大きな街〉から、国境付近に位置する〈小さな街〉へと語り手の兄弟が疎開したところから始まる。それまで大事に育てられてきた兄弟たちは、ここで魔女と渾名される祖母のもと、手荒く扱われ、その過程で不条理な仕打ちに耐える為、〈練習〉なるものを通じて世間を生き抜く術を得ようと画策する。盗みや生き物を殺めること、痛みや誹謗中傷に耐えることは勿論、読み書きをも自習する。その過程で取り決められた制約により、この本のなかには心理描写と呼べるものが殆どない。極度に抑制の効いた文章と項目ごとに分割された章のなかにそれぞれ書かれる出来事のなかで、少年たちは非情で不条理な世界を生き抜く為、自身が非情で不条理な存在へと変化してゆく、その過程が傷ましい。絶無の心理描写と相まって魂ごと根こそぎにされた感すら覚えるシンプルな文章は却って心に刺さり、物語は最後まで息を継がせない。

クリストフの三部作の第一作目は簡潔ながら圧倒的。後に続く二作も良質でしたが代表としてこの作品を選びました。

 

 

2.『慈しみの女神たち』(ジョナサン・リテル

 

「わたしは他の人々となんら変わったところのないひとりの人間であり、あなたがたと同じようなひとりの人間なのだ。」そう語る元ナチス親衛隊将校により語られる物語は、繊細で普通で、幾らか知的でさえある主人公がドイツ第三帝国のイデオロギーと戦争の狂気に巻き込まれてゆくさまを、これでもかと言うほど濃密なディティールによって示してくれる。最初は抵抗を以て為していたユダヤ人虐殺も、次第に数字を計上するように彼らを殺すことに慣れてしまう様子や、世に名高いスターリングラードの戦闘の惨状まで、あますところなく。

 上下巻でそれぞれ500ページ超、しかも文字は二段組みで改行もごくわずかと、外見も中身も鈍器というに相応しいですが、読んで損はない一冊です。

 

 

3.『ウォーターランド』(グレアム・スウィフト)

 

 引退間際の歴史教師である語り手が、ふとしたことからフランス革命の授業を中断して、故郷フェンズについての物語を子供たちへと語るところから始まる。それは最初、フェンズにおける代々の水門番という役割を担ってきたクリック一族についての話、ついで実業家であり未来の着想を絶えずわがものにしてきた実業家アトキンソン一族についての話をしながら、教科書的な人類発展史としての「歴史」とは別な、おとぎ話、出来事の繰り返し等々の詰まった歴史が展開され、それはやがて語り手自身の属する〈いま、ここ〉へと接続される。

 歴史、という編纂された一本道に対する分水路を次々に明かしてゆく点で、この作品は非情に批評的な視線から書かれていますが、文章や世界観は土に浸む水のようにやわらかで、読むほどに没頭してしまうテクストです。Twitterのフォロワーさんに薦めて頂いた一冊。当時の自分が「こんな本が読みたかった!」と漠然と思い描いていた像にぴったりと一致してくれたものでした。

 

 

4.『根源の彼方に―グラマトロジーについて―』(ジャック・デリダ

 

西洋形而上学に深く根ざしている音声中心主義、さらには起源の設定によって生じる直線的な階層構造という閉域からの脱却という壮大な試みに貫かれた本書は、声(フォーネー)の特権化と文字言語(エクリチュール)の抑圧という発想が、いかに西洋のあらゆる形而上学言語学の著書を侵蝕しており、またそれがいかにして民族中心主義に繋がっているかを、様々な引用されたテクストの上を横断しながら《差延》、《原-エクリチュール》といった概念を用いて露わにしてみせる。

つまりは西洋形而上学の歩んできた歴史のなかで批判に晒されず、また批判に晒したつもりでその実、陥っていた思考の前提そのものを批判しよう、というもの。それを為すには途轍もないほどの精緻な読解が要求されるが、デリダはそれを見事にやってのけて見せる、その鮮やかな手際には眩暈がする。

 結構、難解でゆっくりと読んだのですが、引用した文章からデリダが思考ひとつひとつ解きほぐし、硬く結び合っている壮大な思考体型の隙間から光が洩れたように思われた瞬間は、哲学書でありながら「美しい」とさえ感じました。何よりテクストと真剣に向き合うことの重要性を教えてくれる本でもあります。

 

 

5.『渋江抽斎』(森鴎外

 

鴎外の史伝小説は、自身が史料を探訪する過程も詳しく記述するのが特徴のひとつであるが、くわえて「渋江抽斎」に興味を抱いた鴎外が調査を進める過程で知り合った、散り散りになっていた渋江家の末裔たちが、ふたたび互いの所在を知って絶えていた音信を交わすようになるところが面白い。史料が増すに従って渋江抽斎を取り巻く世界が記述により立ち上がるのに伴って、鴎外の周囲の人物たちも史料を通じたネットワークを形成し始めてゆく。

医者を生業にし観劇をことに趣味として、人格も立派だった抽斎に鴎外は非常な共感と尊敬の念を抱いていたらしいことは、簡潔な記述からも充分に窺える。しかも「大抵伝記はその人の死を以て終わるを例とする。しかし古人を景仰するものは、その苗裔がどうなったかと云うことを問わずにはいられない。」ということで、抽斎の死以後も筆を進めている辺りにも鴎外の徹底性が感じられる。

『ウォーターランド』もそうですが、昨今の文学の流れとしてある種の歴史小説が潮流としてある現在にあっては先駆を為すと言っても過言ではないでしょう。というか、その辺の時流に乗った小説など及びもつかないものがあります。狷介な文章ではありますが、きちんと読めば鴎外の様々な配慮が見えてくる筈。

 実は高校生のとき祖父の本棚にあって読んだのですが、何が何やらさっぱり分からずに実質、挫折した本でながらく苦手意識を持っていました。ようやく、過去を乗り越えた感じがしないでもないです(笑)

 

 

6.『小説の言葉』(ミハイル・バフチン

 

 作者の単声や詩性を重んずる文体論、或いは、小説の文章を日常言語との《異化》を志向するものとして取り扱うのではなく、むしろ各々の言語につきまとうイデオロギー性、その言語の果てない対話性が生み出す志向の屈折に着目した小説論。詩の言葉、そして権威的、安定的な言葉とは対極に位置する言語をこそ散文の特質として展開される論は非常にスリリング。

 たぶん現在、それなりに真面目に(というと語弊がありそうですが、)まぁいわば文学として小説を書いているひとは、この本に目をとおしているのでは、と思われるくらい必読本なのですが発表当時はあまり評価されなかったのだとか。あまりに時代を先んじていた論考。

 

 

7.『戦争の法』(佐藤亜紀

 

 紋切り型を嫌悪する語り手の語る、虚構と宣言された上での、日本の一地方、N市で起きた戦争をめぐる物語。ソ連を後ろ盾にN市が独立宣言をした途端、それまで日本の法(成文法から暗黙の了解的な法まで)の支配は日常と共に崩壊し、代わりに戦争状態に共通の法、とでも言うべきものが支配する世界となり、当時15歳の少年だった語り手はその世界でやがてゲリラに身を投ずる。

 冒頭から末尾の一ページに至るまであまりの素晴らしさにくらくらした本。たぶん、このテクストについてきちん語るには舞台となったN市(おそらくは新潟県長岡市)の、戊辰戦争時からの明治政府との戦争や、その後の政府のあり方や体制について語り起こす必要がある気もするのですが、まだ読んでいないという方はとりあえず手にとってみてください。「これが日本での出来事かよ!」と痛快さを感じると同時に、日常暗につき纏う「日本」の束縛を感じたりすることと思います。でも最後はそんな想念さえ吹き飛んでしまいました。あまりに没頭しすぎて。

 

 

8.『馬鹿たちの学校』(サーシャ・ソコロフ)

 

序盤からふたりの声の対話からはじまり、脈絡もなく時系列も空想も、歴史上の人物も、何もかもがめちゃくちゃに挿入される逸話は、のちに次第に明らかにされる、語り手が二重人格であり、記憶をうまく再構成できないという設定の為であるが、そこに本書の具体的な反逆精神がある。解説によれば、この本の書かれた当時のソ連体制下において、社会主義レアリスムという公認されたエクリチュールが幅を効かせていたが、いったい再話するにあたって完全にまことらしく唯一絶対の真実を語りうる、などということがあるだろうか。本書は終盤に明かされるように、物語のすべてにわたって、どこかしら「でっちあげ」が貫かれている。むしろこうした欺瞞性を誇張、強調することで逆説的にこの本は社会主義レアリスムの基盤を顛倒させていると同時に、嘘偽りない真実を語り得ているのであるまいか。

 と、まあ一応書いたもののこの本の内容を概説することは非常に困難と言わざるを得ないでしょう。読むのにも骨が折れました。しかし今年一冊、最上位の本を選ぶならこの本を選びます。無垢と反抗と少しの憂愁と、底抜けの明るさと技巧と、たぶんこの本には自分の理想とするもののことごとくが詰まっていた一冊。2012年の暮れから年明けにかけて読み、その後間を置かずに再読しましたが、それからもずっと脳裡から印象が離れなかった、素晴らしい本でした。

 

 

9.『ヘルデンプラッツ』(トーマス・ベルンハルト)

 

家政婦や弟らによって為される、オーストリアを憎悪した偏執家の故人への言及は、語られれば語られる程に印象の分裂が起こり、時系列も無となり、どこか滑稽になる。その一方、故教授への言及から霊に憑かれたように弟や娘たちの口からも次第にオーストリア憎悪、破壊しかない絶望的な世界への呪詛が立ち現れる、が、それによって現れた世界像は愚劣に愚劣を重ねるしか能のない世界であり叫びを圧殺する世界であり、ナチに代表される甦るべきでないものが甦らんとしている世界だ。饒舌な語りの奥には滅びに次ぐ滅びが予告されている。出口はない。

今年読み納めとなった一冊。逼迫した陰鬱な雰囲気のなかでも、登場人物のあまりの偏執狂ぶりと、ベルンハルト節とでも名づけたいような延々たるモノローグはユーモアが含まれています。このどうしようもない世界を読みたくて、予想以上にどうしようもなかった。おかげで最高の締め括りでした。

 

 

10.『ナチ強制・絶滅収容所―18施設内の生と死』

 

ノンフィクション。証言や文章の引用、綿密な調査によって構築されたそれは地獄の見取り図というに相応しい。約12年間のあいだに少なく見積もって550万人が拘留され、うち450万人の人間を亡きものにした周到な手口が、生々しい声と個々人の自意識の痕跡ひとつとどめない、冷たく夥しい数字と共に立ち上がる。また、収容所ごとに施設の間取りを掲載し、抑留から解放までを章ごとに区切って、そこで抑留された人々がいかに虐げられてきたか、それがいかに計画的であったかを知ることが出来る本。

 読んでいるあいだ憂鬱でした。しかしそれ故にずっと印象に残り続けた一冊と言えるでしょう。無論、この本にも瑕疵がないわけではないですが、自身の声はひたすら抑え証言のみを散りばめることで却って強固な虐殺空間が現れるさまは地獄めぐり。この時期に偶然みた、収容所関連の写真も相まって忘れられないものとなるでしょう。

 

 

と、言う訳で以上10冊になります。書評の前半の文章が妙に硬いのは、読書メーターや感想メモからの引用を含んでいるからです。こうしてみるとナチ関連の文献がやや多めな気がします。ランクインこそしなかったものの、最近読んだ『アンネの日記』とかもそうだし。もしかしたらこの傾向はもう少し続くかもしれません。

 あと、今年は一応、日本文学とアメリカ文学の代表的な作品を順を追って読む年、ということにしてはいたものの、アメリカ文学がまったくランクインしていないのには、我ながら驚きました。正直、あんまり趣味じゃないんです。リテルはアメリカ人ですが、『慈しみの女神たち』は当初、フランス語で書かれましたし、実際リテルはベケットブランショからの影響を受けたそうで、これをアメリカ文学の枠に括るのは些か語弊があるでしょう。

 

 

 さて、最後になりましたが皆さま、良い年末をお過ごしください。そして来年もよろしくお願い致します。