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水底のうたかた

たまさかのお喋り

最期には、孤独な舞踊

 

 今年最初の更新になります。ほんとうは年末に掲載する予定で、草稿には年の瀬の挨拶とか書いてあったのですが諸事情により間に合いませんでした。まあ別に期限があるものでもないですが。

 主に、最近観たまどマギの映画について考えたことをちょっとここに書き記してみるつもりです。いわば単なる雑談ですが、改めて自分のなかで考えを整理し、具体的なかたちにとどめて置きたいと思います。

 

「無から有を造る」とは、一般に創作に対して使われる比喩です。しかし実際、創作物がほんとうに無から造られているのではないことは、多少ものに触れた経験を持つ人なら誰でも知っていることでしょう。過去の作品を下敷きにして生まれた傑作は少なくありません。『劇場版・魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語(以下、「叛逆」の略称を、アニメ版については「本編」の呼称を使います。)』も、そうした作品の列に加えてよいかと思います。そして、これからお話しすることは比較作品論のようなものになると考えてください。(※この記事を書いた現時点で「叛逆」のDVD等はないので、台詞等はうろ覚えだったりしますが……。)

 

「叛逆」には踊りを示唆する演出が多数登場します。登場人物それぞれのたっぷり時間をかけた変身シーンや、異空間映像の端々に映る、複数の影絵の女性たちが踊る姿、オープニングの映像など、挙げれば相当数にのぼるでしょう。生憎、画像や映像で実際にそれをお見せすることはいまの時点では出来ないので、気になる方はふたたび劇場へと足を運んでください(などと書いているうちに私の地域では放映が終了した模様)。

 さて、結論を言うと、この作品の底流を伝っているのはチャイコフスキーの三大バレエであり中でも「白鳥の湖」は最も重要であると言えるでしょう。

 残念ながら私は「白鳥の湖」しか観たことがありません。ほかのふたつ、「くるみ割り人形」、「眠れる森の美女」は未見なので現状は詳しく語る資格を持ち合わせておりません。なので、この論は最初から不完全であることを期しています。だから、雑談。とはいえ物語の視覚的な演出のみならず、プロットの骨格にまで喰い込んでいるとなれば、「最重要」という断言もあながち誤りではない筈です。

「叛逆」を「白鳥の湖」と照合したさいにおける映像と展開の調和は、同じように参照先を母胎として持つ幾多の作品に劣らず秀麗で、それがこの映画の魅力のひとつでもあります。

ちなみにチャイコフスキーの三大バレエがいかに演出に関わっているか、という考察は「ぐらっじ☆ぱんでみっく」というブログにて詳しく書かれています。リンクを勝手に貼ってもよいものか分からなかったのでここにURLは貼りませんが、気になる方は各自訪問してみてください。バレエの他にも登場人物各自の変身時のモチーフの解説だったり、細かな演出の指摘だったりが為されていて、私も「叛逆」再見のさいはお世話になりました。

 前置きはこのくらいにして「白鳥の湖」の話をしましょう。「白鳥の湖」は初演以来、多くの演出家の手によって色々な解釈が世に送り出されてきました。色々な版があること自体はどのバレエ作品も一様にそうであるのですが、「白鳥の湖」はチャイコフスキー存命時代、不評に終わった初演以降、実に多くの版がつくられている作品のひとつで、初演とは真逆の結末に終わる版も、いまや一般的に広く認知されています(と、言いつつ私はそのことを最近まで全く知らず、最初に観た「白鳥の湖」で王子と白鳥が悪魔を打ち倒した結末に仰天しました)。

 私が今回観たのはヌレエフ版です。なぜヌレエフ版かと言えば、悲劇に終わる版で、まともなDVDのやつがそれくらいしか見当たらなかったから、という酷く俗な理由がひとつ。根気強くリージョンの合致している海外版を探すべきだったかも、と思いついた時にはあとの祭り。しかし偶然ながらヌレエフ版は「叛逆」と比較するに相応しい要素を備えていました。

 ヌレエフ版は「白鳥の湖」各版のうちでもことに幻想的要素が強く、中でも最大の特徴は序盤の場面と末尾の場面にほとんど同じ演出がもちいられていることにあります。つまりはループ構造を持っているわけです。

 そうした次第で以下、ヌレエフ版「白鳥の湖」に透かして観たときに「叛逆」、ひいてはまどマギ本編がいかなる様相を現わすかを書いてみたいと思います。進行については「白鳥の湖」の構成に則って第一幕から順に述べてゆき、第四幕で幕を閉じる形にしたいと思います。

 

 

第一幕

《宮殿。椅子に腰をかけた王子ジークフリートがまどろんでいる。彼の夢の中では、美しい姫が不気味な怪物にさらわれていった。家庭教師によって、その夢はさえぎられた。今日はジークフリートの誕生日、これから宴が催されるのだ。打ち解けたムードは、彼の母である王妃の登場で一変する。王妃は、明日の舞踏会で花嫁を選ぶように息子に命じる。母の言葉を聞いて、王子は憂鬱に沈み込んでしまう。「まだ恋も知らないのに結婚なんて……。」宴に集う人々は彼の心など知る由もない。家庭教師は王子を諭し、国王の努めの何たるかを言い聞かせる。王子は孤独だ。重苦しい現実から逃れようとでもいうように、王子は一人湖へと向かう。》――「パリ・オペラ座バレエ 『白鳥の湖』付属解説より引用。」

 

 上に引いた解説のとおり、序盤は白鳥・オデットが現われ、それを追う悪魔ロットバルトが彼女をさらう夢にまどろむ王子がうなされるところから始まります。そして家庭教師ウォルフガングに揺り動かされ、王子はようやっと目覚めるのです。ここで悪魔と家庭教師は同一人物によって演じられ、家庭教師は悪魔の仮の姿であることが示唆されています。

 物語の起点を夢が担うのは、本編で主に鹿目まどかを通じて序盤に登場する大事なモチーフです。しかし夢の中でお姫さまがさらわれる、となると、まどか以上にそれに相応しい人物がいます。何故ならその人物は、自分の生きた時間を何度でも夢に帰しては、ふたたび目醒めているのですから。

ここで王子ジークフリートを演じるのは暁美ほむらです。その理由は追々明らかにしてゆくつもりですが、まどマギ本編は実質、ほむらから始まっているという見方も可能です。

 悪魔にして家庭教師の役を演じるのは当然、キュウべぇ。そして白鳥・オデットこそ、鹿目まどか

 配役を決定したところで次の問題は、この第一幕をどのようにまどマギという物語に対して割り当てるか、です。ところで本編序盤でも「叛逆」序盤でも共通している要素がふたつあります。ひとつはキュウべぇの正体が明らかになっていないことです。特に、本編でほむらが「みんなキュウべぇに欺されている」ことに気づくのは最初の時間遡行でまどかを救うのに失敗したあとになってからです。それまでの彼女がキュウべぇをどう捉えていたか、本編では詳述されていませんが序盤のまどかやさやかたちがそうだったように余り険悪な関係ではなかったと推測するのが妥当かと思われます。何より彼(?)は魔法少女の候補者や入門者にとっての案内役も勤めています。

さながらウォルフガングがジークフリートに国王の役目を言い聞かしつつ導くように、キュウべぇがただの少女である暁美ほむらに対して魔法少女の役割の何たるかを逐一解説し、契約を迫る光景を想像することはさほど難しいことではない筈です。本編序盤に鹿目まどかを再三にわたって勧誘していたのと同様に。また、まどかは本編で何度もキュウべぇから潜在能力の素晴らしさについて言及されますが、ほむらが普通の少女だった時分、恐らく彼女も才能を嘱望されたであろうという推測も成り立ちます。

「叛逆」においても同様の重ね合わせが成立しています。「叛逆」のほむらは彼女の記憶状態がどうであれ、確かに「繰り返し」の只中の起点にいるのですから。いわば第一幕は、「叛逆」の序盤が本編ほむらの転校直後の状態と相似関係にあるがゆえに、二重の参照を被っています。

 とはいえ始まりがなければ、その後の「繰り返し」もあり得ない訳です。原本なくして模倣が存在しないように。その意味でも第一幕は本編ほむらの物語に、より合致することとなるでしょう。

 また、敢えて「叛逆」の枠内にとどまらずに本編をも射程に入れたことには別な理由もあります。第二幕、第四幕でそれは明らかになる筈です。

 

 

 第二幕

「夜の湖畔。王子は物思いに耽っている、とそこで不思議な光景を見てしまう。白鳥が美しい娘に姿を変えたのだ。彼女の名前はオデット。悪魔に捕らえられて、白鳥に姿を変えられてしまったのだという。彼女を不幸な運命から救い出すことができるのは、永遠の愛だけだ。オデットに夢中になった王子は、自分こそが彼女を救うと申し出て、明日の舞踏会にオデットを招く。そこで彼女を花嫁として選ぶつもりなのだ。オデットと共に姿を変えられた娘たちの命運も王子にかかっている。夜明けと共に、娘たちは姿を消す。」

 

 薄暗い舞台をほのかな青白い光が包み込む、幻想的な雰囲気のなかで第二幕は開始されます。悪魔に欺され契約させられた鹿目まどかを、「鹿目さんに守られるわたしではなく、鹿目さんを守るわたしになりたい」と、その後幾度にもわたって彼女の呪いを暁美ほむらが解こうと試みる物語――まどマギ本編はそうした側面を持っています。ほむらが王子である所以です。そして「叛逆」の後半において、ほむら自身それらの行為の動機を愛であると明言しています。

また、白鳥は他の踊りにはない独特のしぐさをします。片手を振り上げ、波打たせるようにしてもたげて白鳥の首の撓りや羽のはばたきをあらわす動作ですが、「叛逆」のほむらが変身時にしていた動作はそれと酷似しています。ただ、だからといって正確には、ほむら=白鳥というわけではないのですが。

(http://www.youtube.com/watch?v=k27wb1DTfeM 50分以後あたり参照。ヌレエフ版ではないが全幕収録の模様)

 

第二幕は具体的にどの位置に割り振られるべきでしょうか。採用している物語の枠組みが似通っている為に該当しそうな箇所は多数ありますが、王子と白鳥が永遠の愛を誓うものの、ふいにオデットの目に悪魔の姿が垣間見えた途端、彼女は夜明けと時を同じくして王子のもとから去り、王子は手をかざし名残惜しげにそれを見送る……、というこの幕の終わりにも適っているのは本編12話の最後の場面です。何故なら鹿目まどかは実質上、「円環の理」という概念となりましたが、形式としてはキュウべぇと契約して再度、魔法少女となったのであり呪いは完全に解かれたのではありません。

ほむらの契約の言葉「彼女に守られるわたしじゃなく、彼女を守るわたしになりたい!」、或いはほむらが三度目の一ヶ月を過ごしたさい、今際のまどかの言葉、「キュウべぇに欺される前の馬鹿なわたしを救って欲しい」に対して「約束する! 何度繰り返しても、あなたを必ず救って見せる!」等の愛の誓いは、本編終了時点で決して果たされてはおらず、その果たし得えていない約束を果たそうとする物語である「叛逆」へと続きます。

「叛逆」の劇中で、ほむらが夢に託けてそれとなくまどかが円環の理となったことを示唆したのに対して、まどかが「ほむらちゃんでさえ寂しくて泣いちゃうようなこと、わたしに出来るわけないよ……」と言い、「やっぱり、あなたもそう思うのね。それなのにわたし、何て馬鹿なことを……!」と、ほむらが言葉に悔いを滲ませるやり取りも、呪縛がなお続いていることの証拠のひとつでしょう。

 

第二幕の話はこの辺で打ち止めにします。第三幕はいよいよ「叛逆」が全面的に主題となる箇所であり、同時に白鳥の湖との関連性を読み取る過程のなかでも最重要箇所になります。

 

 

第三幕

「宮廷で舞踏会が開催される。王子はどこか不安げな表情を浮かべている。

花嫁候補の姫たちの国の民族舞踏が次々と披露され、王子は姫たちと踊るが、誰も彼の心をとらえることなどできない。沈み込む王子。そこにロットバルトと名乗る貴族と娘が登場する。その娘はオデットにそっくりだ。悪魔が王子を陥れにやってきたのである。オディールとロットバルトは邪な視線を交わしあい、ロットバルトは周囲を威圧するように踊る。オディールと踊った王子はますます彼女に夢中になって、結婚を申し込む。と、そのときロットバルトたちが正体を現す。王子は自分の過ちに気がつくが時は既に遅い。愛の誓いははかなく破られた。オデットは二度と人間の姿に戻れないのだ。」

 

 華々しい舞踏会で花嫁候補たちが踊りを披露するなかで、王子ひとり浮かぬ顔をする、その映像が見せてくれる構図と「叛逆」のOPとを接続するのは困難なことではない筈です。遊園地を背景にマミ、杏子、さやか、まどかがくるくると踊りを舞うなかで、ほむらだけがひとり立ち竦んでいる、その光景を。

 そして「叛逆」の前半の物語は、自己の創出した夢に溺れていたほむらが、次第に異変に気づき出す中、それら異変に気づくことなく現在の状況に没入している周囲の人物とのあいだに引き起こす摩擦によって引っ張られています。さらには後にキュウべぇによって明かされるように、この饗宴に登場している鹿目まどかは本来ならば円環の理であり、つまりキュウべぇの解説するとおり、居ない筈の人物が居る、という状況になっています。少なくとも、その場にいる鹿目まどかは「本物」ではない訳です。

 こうした饗宴を作り出した張本人であるキュウべぇが種明かしをするより先に、ほむらがその原因を自己の裡に見出す場面は、白鳥の湖と「叛逆」を照らし合わせるにあたっての最重要な部分となります。何故ならそこにおいてこそ、参照先の作品の轍をただ辿るのではなく、参照先とのズレが生じ、そのズレの中に「叛逆」の重要なモチーフが生まれているからです。

 参照先の「白鳥の湖」では版次第で結末が大きくふたつに分岐するのですが、いずれにおいてもこの時点では悪魔ロットバルトの策略に気づくことなく、黒鳥オディールの誘惑にまんまと欺かれ、王子ジークフリートは彼女に永遠の愛を誓ってしまいます。すると途端にロットバルトとオディールはその正体を明かし、王子の白鳥への誓いは儚くも破れて呪いからの解放も泡と消えます。では、王子――ほむらが悪魔――キュウべぇより先にからくりを見抜くことは、どういう意味を持っているのか。

その転換を為す、バスの二階席に乗り込んだほむらの周囲にふくろうが集まってくる映像がありました。先記したブログに曰く、十二時をうつ柱時計にふくろうがとまる、というモチーフは、「くるみ割り人形」のものだそうですが、「白鳥の湖」の悪魔を象徴する鳥もふくろうです。そして、その暗示するところは「知性」。その知性は、怒り狂ったほむらに対してこう語りかけます。

――訳が分からないよ! 君は鹿目まどかに逢いたいんだろう?

――そんな現実をわたしは望んでいない、と応じるほむら。

そしてほむらの詰問。

――まどかを支配しようとしているのね!

――否定はしないよ、と答えるキュウべぇ

 

 キュウべぇがほむらの欲望を利用してまどかを引き摺り出そうとする目論見は、これら応答のなかに充分にあらわれていると言っていいでしょう。そして、ほむらの望みがキュウべぇの見当とは別所にあることも。すかさず第四幕へ。

 

 

第四幕

「王子は自分の愚かさを嘆くが、時は既に遅い。絶望した王子の前に幻のように湖が現れる。悲しむ白鳥たち、その中にはオデットの姿もある。王子はオデットに自分の愚かさを詫び、許しを請う。しかしもはや二人の行く末に未来はない。オデットは悪魔に連れ去られ、王子は意識を失うのだった。」

 

 上記の解説にもあるとおり、ヌレエフ版は悲劇で幕を閉じます。それも最序盤と同様、悪魔ロットバルトが白鳥オデットを浚う、という演出によって。ヌレエフ版がループ構造を持つと言われる所以です。

 悪魔になったほむらの回想のひとつに、草原にふたつの椅子を並べてそのうち一方の椅子からまどかが横ざまに倒れ、(眼鏡の)ほむらがそれを止めようとするもののすんでのところで届かず、そのまま草原に倒れたまどかが液体となり、草原にピンクの飛沫が散る場面がありました。それを見て呆然とするほむら。それを上から別な何人ものほむらが冷然と見つめている。やがて、ぐしゃり、とひときわ巨大なほむらが、まどかが壊れるのを阻止出来なかった自己を罰するかのように潰します。

 高所から横ざまに落下するのは悲劇に終わる白鳥の湖の、オデットの死の場面そのものです。

http://www.youtube.com/watch?v=JI7AsZGnyi4

 ちょっと見づらい上に動きが速いですが、こんな感じで投身。ちなみにこれはヌレエフ版ではありません。

http://www.youtube.com/watch?v=hVO6VGqfWwQ

こちらは映画『ブラックスワン』のラスト。スローなのでこちらのほうがわかりやすい。正確には横さまに身を投げ身体を捻り、背中から着地しています。

 

 美樹さやかに「何故あんたはこの偽りの見滝原を作り出した犯人を暴こうとするの。これってそんなに悪いこと?」と問われたさい、ほむらは「まどかの作った世界から目を背け、偽りの世界に逃げ込む。そんな心の弱さをわたしは許さない」と、私の記憶がただしければこのように答えた筈です。

その心の弱さは、ともするとキュウべぇにつけいる隙を与え、円環の理であるまどかを支配させてしまったかも知れないことは先記しました。そうなれば、「キュウべぇに欺される前の馬鹿な私を救って欲しい」(本編10話)というまどかとの約束を違えることになりますし、何より、これまでのほむらの努力を水の泡にしたでしょう。

この回想の映像は白鳥の湖の悲劇的終局を暗示すると同時に、ほむらにとって最悪の結末を暗示しています。彼女のこれまでの努力やまどかの身を呈した願いが水の泡となり、ふたたびキュウべぇによって魔女の存在する世界に戻ってしまうこと、まどかが絶望すること、まどかが死ぬ、もしくは魔女と化してしまうこと……。それは本編でほむらが何度も目の当たりにした風景であり、「叛逆」のみならず「本編」についても言及した理由もそこにあります。

暁美ほむらキュウべぇの言うように、鹿目まどかにただ逢いたいのではありません。「彼女に守られるわたしじゃなく、彼女を守るわたしになりたい」のです。ほむらが魔法少女の契約を結ぶときの誓いは、「叛逆」の中でもっとも重大な要素であり、「白鳥の湖」と重ねて見る場合もそれは不変です。

だからこそ、ほむらは自己を犠牲にして、まどかがキュウべぇの手に落ちることから守りました。

そして共闘。この辺はお約束感がありますが、メッセレル版やブイメイステル版等、悪魔を倒し大団円で終わる方の版の白鳥の湖では、しばしば群舞の白鳥が悪魔の邪魔をするしぐさを見せることもあります。無論、最後には王子ジークフリートと白鳥オデットの愛の力により、悪魔を追い払う、というもの。その愛の力による勝利は、まどかとほむらが共に魔法の弓をひいてキュウべぇの軍勢をうち倒す場面と重複します。

ここで物語本来の流れを損なうことなく、「叛逆」は白鳥の湖のふたつの終焉いずれともを含み込んでしまいました。こういう目くばせの巧さは流石です。

けれども物語はここで終わりではありません。迎えに来たまどか(円環の理)の一部をほむらが自分のソウルジェムの内側に閉じ込めてしまう場面を経て、胸もとの大きく開いた黒いドレスを着たほむらがお披露目されます。

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これが黒鳥オディールの衣装(アニエス・ルテステュ)。悪魔となった(ここでキュウべぇがほむらを悪魔呼ばわりするのはジョーク以外の何ものとも思われないのですが、)ほむらの衣装とうりふたつ。ポーズにも見覚えがある筈です。その後、改変された世界の川辺に浮かんでいるのも黒い羽。

改変後の世界で、まどかとほむらの立場は一見すると逆転しています。転入生として先生に伴われ教室にやって来るまどかに対し、ほむらは学校を案内すると申し出ます。

先刻、まどかを白鳥になぞらえたにもかかわらず、単純な構図の逆転後のほむらは白鳥ではなくあくまで黒鳥なのです。単純に言えば、偽物である、ということです。ほむら自身、かつてまどかにそうして貰ったように教室を案内し、会話による気持ちの接近を試みますが違和感を拭うことが出来ず、「やっぱりわたしよりあなたの方が似合うわね」と認めたあと、やがては赤いリボンをまどかに返しています。

しかし偽物というより、ズレを埋められなかったと言うべきでしょうか。「彼女に守られるわたしじゃなく、彼女を守るわたしになりたい」というほむらの願望自体、当時のほむらとまどかの関係の逆転を望むものとなっています。そして彼女はそれを成就する為、何度となく時間を遡行してきました。その過程から生じた苦悩を、ほむらは本編11話でまどかに告白しています。

「まどかにとってのわたしは、出会ってからまだ一ヶ月も経っていない転校生でしかないものね。だけどわたしは、わたしにとってのあなたは……。繰り返せば繰り返すほど、あなたとわたしが過ごした時間はずれていく。気持ちもずれて、言葉も通じなくなっていく……。」

 

 時間遡行のたび、まどかとのあいだに引き起こされるズレは、「叛逆」に至って終に明白となっています。白鳥――まどかの役を引き受けようとしながら、彼女は完全に白鳥になりきれることは終にありませんでした。黒鳥は、願望を叶えようとしながらもそこに必然的に生じた互いの齟齬が具現した姿です。

 最後の場面では夜、ひとつだけ椅子の置かれた草原で、ほむらがくるくるとステップを踏みます。言うまでもなく黒鳥の踊りです。

(http://www.youtube.com/watch?v=TQV-E0ogSMM 1:25分あたりを参照)

(http://www.youtube.com/watch?v=JsjrED4mT6E 1:00分あたりを参照)

 

 そして彼女はまるで白鳥のように高所から身を投げます。それは、ともすれば、まどかが被ったかも知れない運命を、不完全――黒鳥は白鳥ではない。だから白鳥が享けたような王子からの真正の愛もない――ながらも「逆転」したことで、ほむらが代わりに引き受けたかたちになっています。

「彼女に守られるわたしじゃなく、彼女を守るわたしになりたい」

ほむらの願いは、こうした悲劇的なかたちでようやく成就されました。

 

 

 

参照作品を「白鳥の湖」一作に絞った状態で描こうと試みた「叛逆」の線は、ようやく終息を迎えました。繰り返しますが、あくまで他のチャイコフスキーのバレエ二作を未参照のまま書きましたので、後日二作を鑑賞したとき、また違う側面が現れることによりいままで引いた線自体を改める必要に迫られることもあるでしょう。そのさいは喜んで書き直します。ともあれ、今回はここまでということでご容赦ください。

 

この話が少しでも「叛逆」及び「白鳥の湖」を観るさいに何かしら新たなものを付け加えるものであれば幸いです。