水底のうたかた

たまさかのお喋り

6月12日――日記からの抜粋

 

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 しきりに降っていた午前の雨はいつしかやんでいた。その名残、洗われた街々を掠めゆく澄みわたった湿やかな空気は地下鉄で数駅を跨ぎ見知らぬ土地へと降り立ったさい、ちょうど黄昏どきを迎えていた為にいっそう顕著だった。舗装された路面もかすかに濡れていた。木々に至っては雨の記憶をほかの事物よりもずっと鮮明にとどめていて、葉のひとつびとつは泣き濡れたように雫を結んで深緑の匂いに誘われて思わず深呼吸すると肺に溜まった澱みまでが換気された。おかげで疲労で惚けていたところへ束の間の甦生を味わった。濃い色をした葉叢が狭い路地の両脇に並んでいた。いつの時代だよ、と言いたくなるような、学生運動の名残のような立て看板をはじめその他政治色のつよい文句の書かれたパネルなどもあったが、それに目を瞑ればW大学は風光明媚に映った。サミュエル・ベケットの演劇はこの地で展開される。アイルランドの劇団「Company SJ and Barabbas」招聘公演。白壁を縁取る焦げ茶色の木枠や蜜のように艶やかな柱を擁する田舎の教会にも似た、痩躯の坪内逍遙記念館、その手前の空白の場所で。

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(「芝居」の上演された跡地)

 

 どこでも構わないのだ。どんなところでも、ベケットの劇は生成されそうな予感がする。その日上演された「芝居下書きⅠ」は、どこからどうやって逢着したのか自分でもしらない、という盲目のヴァイオリン弾きの男(Aと表記されるが、のちにBによってビリーと呼ばれる。演じるのはBryan Burroughs)と、ようやく家から外出したという車椅子の男(表記はB。Raymond keaneによって演じられる。)のふたりで演じられる。そして舞台指定はベケットの劇の例に洩れず非常に簡潔だ。「町角。あたりは廃墟」。

 開始早々、原作のト書きにない演出が現れる。盲目者Aと不具者Bとが互いに近づいたさい、それぞれ手持ちの杖をまるで鞘当てするように恐るおそるぶつけあう。程なくして、彼らふたりの心理的距離感と大胆さのうら返しの臆病さとをあらわすような間合いで互いの杖は振り回されるが絶妙に当らず、空気を裂くかすかな音が舞台を掠める。それに、さらに細かなしぐさについて言えば、Bが喋るとき、たびたび狡猾そうに相手の顔色を覗き込んだり、にやりと愛想笑いを浮かべたりするのだが、こうした表情の多彩な移ろいを盲人相手にやっているのも滑稽で、不毛だ。

「芝居下書きⅠ」のあらすじは例によって単純。先に記したふたりの登場人物が偶然にも「町角」で出会す。Aが簡易ベンチに座りヴァイオリンをそぞろ弾いていたところ、その音を不審に思ったBがそれに惹かれてやってくる。直にAを見て謎が氷解したあと、――さて、これでもう帰れる。謎は解けたもんな、とBは言う。だが、すぐにはたと車椅子を停めて、奇妙な、というより不器用な提案をする。

 

――もっとも、あんたとおれが手を組んでだ、死がふたりを分かつまで、いっしょにやっていこうっていうんなら、べつだがな。

 

 Bは食べ物を言葉どおり餌にして――具体的にはグリーンピース――Aとの接近を図る。彼はAをうまく口車に乗せ、Aに自分の車椅子を操縦して貰う約束を取り付けることに成功するのだが、すなわちそれは杖を殆ど唯一の頼りにする盲人から杖を手放させることだ。ここでBはAから交換条件による自己犠牲を抽き出した。だが、嗄れた図々しい声に似ず、Bは調子に乗りすぎたあと、ふいに醒めた人間の陥るような不安を交えつつ言う。

――おれのこと、少しは好きになってきたかい? それとも、おれの妄想かな?

――グリーンピース!と、Aは夢見る調子で嘆息する。

 契約は、その外観がいかに自己犠牲や奉仕といった、「愛する者と、愛される者」との関係に似ようとも所詮は強制あるいは惰性的な慣習の産物であって、愛情を起点とした関係とはなり得ない。『ゴドーを待ちながら』のポッツォとラッキーの関係然り、『勝負の終わり』のハムとグロウの関係然り。関係の鎖を振り解こうとしても徒労に終わるが、さりとて改善の兆しもない距離感覚に延々と囚われている苦しいこの一対の関係は、『芝居』にも適用されている。とはいえ、AはBの車椅子を押す為に杖(原作ト書きでは、ヴァイオリンと乞食銭を容れる用の皿)を置いて、あぶなっかしい足取りで、Bの車椅子の背後まで手探りしながら行く。ここで盲人が杖を手放すことのリスクは言うまでもないだろう。そうして、「やみくもに」車椅子を押すAに対して、Bは――とめろ!と喚くが、Aは――サービス!サービス!と誤った方向へと奉仕の精神を発揮する、その結果、怖れ苛立ったBは持っていた杖を大きく振り回し、背後のAをしたたかに打ち据える。直後、Bはみずからの為したことへの激しい悔恨に襲われて独言する。――これでやつを失っちまった。おれを好きになりかかっていたのに、おれはやつを殴っちまった。やつはおれを置いてゆくだろう。おれは二度とやつに会わないだろう。おれはだれにも二度と会わないだろう。おれたちは、二度と人間の声を聞くことはできないだろう。

 Bの悲痛な懺悔のなかに、「愛されて愛し得ぬ男」であるベケットの分身としての側面を垣間見ることは困難ではない筈だ。子宮のなかで微睡んでいた頃の記憶があると公言していたベケット。そして難産、墓場を目指しての苦しい旅路。そもそも最初から間違っていたのだ。先述した語群をもちいるなら臍の緒との繋がり方自体からして悪く、繋がり方――車椅子のBが幾らAを愛し、Bから愛されることを欲そうとも、肝心要の最初が経済的なものであるならば杖を手放してまでの盲人のサービス精神に富んだ自己犠牲も雇われ人夫の気前のよい仕事ぶりにしかなり得なず、まして過剰な愛に対して暴力的な応答でしか報い得ないBのような性質の人間がこうした愛を求めること自体が頓挫を運命づけられており、すなわち二重の意味で失敗するほかない試みだったのだ。失敗についてのベケットの執着は、画家にして彼の親友ヴァン・ヴェルデにかんする記述を一読してみれば納得されるだろう。一方、ベケット自身といえば、つよく愛しながら性質の違いの為にしばしば激しい衝突と葛藤を引き起こした相手は、母親だった。

 

――やってくれよ、ビリー。そうしたら、おれは帰る。そしてまた古巣にへたりこんで、こう言うさ。これが人間の見おさめだった。その最後の人間をおれは殴り、やつはおれを助けてくれた。……心の中に愛というやつの切れっ端を見つけて、おれは仲直りして死んでいけるってわけだ。

 

 

 Bにふたたび近寄る為、Aは音を立てろとせがむ。そこでBは言う。

 

――ちょっと待った。あんた、無料奉仕ってわけじゃないだろう?つまり、なにか条件があるんだろう?

 

 だがAは無言のまま甲斐々々しく、Bの脚にかかっているブランケットを直してやる。こいつは驚いた、と言うときのBは完全に自分が先刻提出した交換条件のことを忘れている。

 

この場合、方式は問題ではない。とにかく、変形が起こったのである。(中略)われわれは、昨日が存在するがゆえにいっそう倦み疲れているだけではない。われわれは、すでに別の存在なのだ。もはや、昨日という災いが起こるまえのわれわれではないのである。…

 

 先の引用はベケットの若き頃に書かれたプルースト論からのものだが、こうした「変形」と「断絶」はベケット作品の至るところに現れており、『芝居』では、Bに頓挫した、あるいは頓挫するしかない愛によって結ばれた関係をふたたび錯覚させてしまうぶん、この変形はより傷ましい。そうして、――こいつは驚いた!というBの台詞のあと、BはAの手を取って引き寄せ、まるで頬摺りでもするみたいにして、忘却から生じた無償の愛の似姿を、あぁ……という幸福そうな溜め息混じりにわずかのあいだ堪能する。だが、ベケットの文章の比喩にも頻出する動物の例に洩れずベケットの登場人物に更正や陶冶といった事柄は、彼自身が『プルースト論の』なかでジッドとその信奉者を皮肉って、習慣を陶冶せよと言うことは鼻風邪を陶冶せよと説くことと同じくらい意味がない、と言ったように意味がない。ひと頻りBの頼みごとを聞いたあと、ふとAはBの足もとで膝をついたまま、もうじき夕方じゃないのか、と訊く。対してBは言う。

 

――さあさあ、ビリー、立てよ、あんた、ちょっとお荷物になってきたぜ。

 

 時間の遷移による「変形」がたとい同一性への攪乱をもたらそうとも、だからといって人間が善良になるわけではない、というよりベケットの登場人物たちは『名づけ得ぬもの』のように手や足、目といった身体の部分を恣意的に切り棄てようとも、なお「私」から逃れることは出来ないという軛に囚われており、それは『芝居』においても同様だ。Bは、Aに親切にして貰ったさい、次の台詞を口走る。――もういいから、立って、おれに何か頼めよ。しかしその舌の根も乾かぬうちに、Aが耳を澄ませたいから静かにしてくれ――ベケットは幼い頃からあらゆる音を聞き分けられた、こうして彼は自分の特質や思い出を芯に各人物を捏ね上げる――という哀願に、Bは激しい癇癪と意地の悪さで応じる。彼はAのもといた折りたたみ椅子のうえにあったあらゆるものを奪ってずらかったらどうなると思う、と唆す。杖でAの背中をからかうように突いていると、突如としてAが身を翻してBの杖を奪う。立場の逆転。視点を少しばかり変えてみれば、この劇は相互の杖の奪い合いという連鎖的な営為の一部始終と観ることも可能だろう。その為に、経済関係は象徴的にもちいられたのだと。そして、AはBの頭上で杖をびゅんと振り回したところで周囲のライトはふっと消え、光のなかにあった登場人物たちは影へと沈む。ふたりの役者の背後でまだ雨に濡れてうな垂れた花の色が際立っていた。

 6月12日の日記と称して、いま6月22日のぼくがこの記述を書いている。この日記はすでに虚構と化している。だがそうだとして、誰が一体そうした真実らしさの有する実と虚の境界線の位置に関心を払うだろう。愚直にこんなことを明かさなければ、おそらくは誰もがこの記述を6月12日に書かれたものとして素直に受け止めてくれるだろうし、否そもそもそんなことはどうでもいい筈だ。しかしぼくは?欺瞞を欺瞞と明け透けにしたうえで、なおそれらしく日記を記述するのか?ほら、いま時刻は零時を打って6月23日になった。とはいえ、いまはやはり6月13日なんだ、間違いなく。いや、わからない。もう黙っていよう、退屈な街路どものように、頑なに。そしていっそ筆を折ってしまおう。――クソッタレ。

 

   ……

 

わからん、絶対にわかるはずがあるもんか、沈黙のなかにいてはわからないよ、続けなくちゃいけない、続けよう。

 

   ……

(小休止)

 

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(「言葉なき行為」の跡地。奥は下手、手前が上手)

 

 

『言葉なき行為Ⅱ』と題された無言劇の副題は「二人の登場人物と一本の刺激棒のための」となっており、すなわち精確さを求めるならば『二人の登場人物と一本の刺激棒のための言葉なき劇Ⅱ』と、ぼくははじめからそう書くべきだったのかもしれないが、そんなことよりも重要なのは、叔父のハワードにつれられて、兄ともども少年だったサミュエルが映画館に足を運び、そうして彼が生涯にわたって映画を好んだということにある。スラップスティック・コメディという喜劇の一形式を、その名称だけでも知っているひとであれば、アイルランド大使夫妻をはじめとする観客の目と鼻の先、アスファルトに横長のボール紙を敷いただけの舞台上で展開される身振り手振りの劇が、何から着想を得ているか見当がつく筈だ。

 張り詰めた、薄闇のなかへのわずかのあいだの溶暗の後、ずんぐりした寝袋がふたつ、舞台のうえに横たわっている。そのうちひとつを、舞台横から差し出された棒が何度か突く。突かれたほうの寝袋がもぞもぞと動き出し、やがて緩慢な動作で現れたのは、だらしなく、浮浪者ふうの、こう言ってよければベケットの小説世界にお馴染みの男だ。彼は、まだ夢から醒めていないかのような、目蓋を半ば閉じ恍惚とした表情で、ときおり飛行機の滑空音が掠めるだけの虚空へ向かい両手を合わせる。彼は必ずといってよいほど行為と行為のあいだに奇妙な間を空け、その所為で機敏さに欠けている。ト書きによれば、空白は、「もの思いに耽っている」らしい。だが傍目にはぼんやりとしているようにしか見えない。いたくゆっくりと、億劫そうに服を着る。こうした行為のあいだにも、表題どおり言葉はない。ただ欠伸にも似た呻きが発せられるばかり。その為、客席から立ちのぼる、咳する声や、恐らく当人にとっては秘かに、だが誰の目にも明らかなデジタルカメラのシャッター音、通路を挟んでぼくの隣の椅子で神経質に膝を叩くアイルランド大使夫人の指のかぎりなく無に近い音までもが、否応なく、この劇を構成する「音響」に組み入れられてしまっていたのだった。

「人は舞台上で言葉を発している限りは、舞台という空間に存在できることになるのであり、それを存在論的比喩に仕組んだのがベケットの劇作術にほかならない」と、渡辺守章は『演劇とは何か』のなかでそう述べているが、その理由は引用箇所の前段落で彼みずからが言うように、「舞台上では、原則として、常に一人の人間しか言葉を発することができない」からであり、それもその筈、舞台上で言葉が混線してしまえば、誰が何を言ったのかわからなくなる。そして渡辺氏は、それを「奇怪な言葉の暴力」と呼び、この関係は単に登場人物間にあるのみならず、舞台と客席のあいだにも存在すると指摘している。換言すれば言葉は、それが舞台上で発せられているかぎりは「言葉を発する舞台と沈黙と余儀なくされる観客」という関係を、規定する機能を絶え間なく作動させているのである。けれども『言葉なき行為』では饒舌な装置はずっと静まりかえっている。呻きは、声というよりは音に近い。それゆえ、単に客席から発されるわずかなもの音だけでなく、役者の演じている、起床、両手を合わせ、もの憂げに服を着る……という一連の動作を、絶えず「観ている」ぼくらもまた、期せずして言葉なき行為に参与していたのだった。それは最小の舞台が、最大になる瞬間。

 ぼくはほぼ最前列に等しい席を占めていた。折しも、舞台上の怠惰な男がようやっと服を着終わり、そしてブルゾンのポケットからふいに一本のにんじんを取り出して、観客の笑いを誘ったところだった(『ゴドーを待ちながら』のセルフパロディ)。彼は、その些か薄汚れた人参をゆっくりと口へ運ぶ。そして突如、おえぇっ……という生々しい嗚咽と共に、その人参の破片を地面へと吐き出した。そのとき、彼のくの字に折れた身体は舞台下手から浴びせられている人工燈の所為で、まるで半月のように身体の輪郭と半身とを明るませていた。そして口蓋から勢いよくぼたぼたと垂れる唾液は濁った月の雫。ベケットの得意とする、人間の生理現象への刺々しい揶揄は、奇術のようにその卑しさを崇高さへと転換させていた。すなわち演出家の手は白い手袋を嵌めた奇術師の手のひと翳し。

 男は、またも視線をあらぬほうへ彷徨わせつつもの思いに耽ったあと、舞台上にあって微動だにしないもう一方の寝袋の端を掴み、ほんの心持ちばかり引っ張ったあと、またも緩慢な動作で、先刻の動作を逆再生するかのように服を脱ぎ、ふたたび自分の寝袋へ戻る。そうして朝を迎える。というのも、ベケットには不眠症と、朝寝をする習慣があったからだ。それに、次いでもう一方の寝袋から跳ね起きるように登場する男は、誰の目から見ても朝型の人間だ。

 舞台袖から伸びる棒による三度目の刺激は、まるで目覚まし時計が促したかのような勢いで男を寝袋から呼び出す。起床いちばん、男は大袈裟なしぐさで腕時計を見る。それだけで、すでに男がこの社会では決して誰も表立って滑稽だと笑いはしないが、その実もっとも滑稽な身分であり、そうしてこの劇内では確実に滑稽な役回りであることを察する。彼は歯ブラシを取り出し猛然と歯を磨き、また時計を眺め、またも猛然と――同じ洋服一式をまえにしながら先刻の、思索に耽りつつ緩慢に動作する男とは対照的に――服を着て、もう一度時計に目を遣り、と思うとふいに上着を脱いで――実を言うと、この辺はすでに記憶が怪しいのでト書きに頼っている――上着にブラシをかけ、帽子を脱ぎ、勢いよく髪にブラシをかけ――折しもBryan Burroughsは綺麗なスキンヘッドなので、ここは笑いどころとなった――帽子をかぶり、ブラシをしまい、また時計を眺め、それから上着のポケットから人参を取り出し、それを丸かじりしたと思うと吐き出すことなく、むしゃむしゃとウサギのように勤勉な口の動きで咀嚼してしまったのだった。食事中、彼の目は絶えず虚空の一点に据えられていた。それから、彼ははじめの男と同様、この劇における唯一の労役と言ってもよいかもしれない行為に取りかかる。いまは怠惰な男の寝ている袋を肩に担ぎ上げると、呻き声と共に幾分かそれを舞台の下手から上手へと移す行為。さながら勤労者が職なしの男を支える姿に映ってしまい、ほんの少し前までは怠惰な男の側であったのに、いまやひょんなことから勤労の男の側の人間となってしまったぼくにとっては、この場面は可笑しみと悲しみとが綯い交ぜになった心地をもたらした。……ぜいぜい、と労役を終えた男は軽く息を弾ませていた。それから彼は持ち前の神経質で整然とした性質どおりのしぐさで、最初の男と同様に服を脱いで、それから袋にはいる。最初、舞台下手にあったふたつの袋は、いまはそれより遠く、上手側に移動している。ともかくもこうしたささやかな変形は、日々のうつろいを最小限の形態でしめしている。その変形により、棒は、男を突くのに以前より少々労力と時間を要するようになる。

 だが棒は突く。ふたたび最初の怠惰な男が出てくる。そうして彼は欠伸をして、そう――いつものように虚空に向かって祈りを捧げる。虚空に向かって?祈る先はただ虚無ではないかもしれない。祈りは、自分の眠っているあいだに自分を支えてくれている、彼とは何もかも対照的で滑稽な勤労者に捧げられたかもしれない。そのとき、さながら朝と夜の間柄のような人間同士の互いの要素が過不足なく嵌まり合い、この短い舞台のうえに陰と陽の文様にも喩えうるような整然たる姿が出現する。たとえそうでなくとも、祈る男の恍惚とした表情を最後にスポットライトは消え、忙しない拍手の雨音が、劇という、ひとときの夜の夢の終わりを告げていた。