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水底のうたかた

たまさかのお喋り

燃える薪を拾う、火から―川端康成『雪国』の基礎的技術の読解―

 

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

 向かい側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、

「駅長さあん、駅長さあん」

 明かりをさげてゆっくり雪を踏んできた男は、襟巻で鼻の上まで筒み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

 

 

 川端康成『雪国』の冒頭です。

 言わずと知れた古典で、いまさら何を、という感じですが、最近この小説を読み、とりあげてみたくなりました。

 小説を読むとき、ただ目の前の文章にひたすら没頭するのは理想ですが、たとえば真っ白い壁を凝視しているのは苦しいように、目線をどこかに集中したり何かに基づいて順繰りに視線を動かしたりする、そのような運動が伴わない鑑賞は苦痛です。音楽で言うなら一定の音が単調に終りなく鳴っているだけのそれを聴き続けるようなものです。ミニマル・ミュージックがこれに該当しますが、たとえば池田亮司氏の音楽ひとつ聴いてみても単調のようでいて微妙なアクセントをくわえているのがわかると思います。単調さという基底が、ごくわずかなアクセントをむしろ強調しているのです。

 このアクセント、小説を読んで思わず、おっと反応する箇所。ただ目の前の文章を追う、という基底的な作業から派生して読解という運動中に別の視点を提供してくれる箇所。そのような「引っかかり」について少し、(できれば肩のちからを抜いた感じで、)お話してみようと思います。

 

『雪国』で有名なのは鏡の主題です。『雪国』のWikipediaにも掲載されています。いまわたしの手もとにある講談社文庫『雪国』はp7からはじまって、鏡の語がはじめて登場するのはp10の最初の段落です。

 はじめに『雪国』冒頭の文章を引用しました。非常に簡潔なリズムです。

 

 

 長い時にわたって、私は早くから寝たものだ。ときには、ろうそくを消すと、すぐに目がふさがって、「これからぼくは眠るんだ」と自分にいうひまもないことがあった。それでも、三十分ほどすると、もう眠らなくてはならない時間だという考に目がさめるのであった、私はまだ手にもったつもりでいる本を置こうとし、あかりを吹きけそうとした、ちらと眠ったあいだも、さっき読んだことが頭のなかをめぐりつづけていた、しかしそのめぐりかたはすこし特殊な方向にまがってしまって、私自身が、本に出てきた教会とか、四重奏曲とか、フランソワ一世とカール五世の抗争とかになってしまったように思われるのであった。

 

 

 極端な対照例として引用したのは『失われた時を求めて』(マルセル・プルースト/井上究一郎)の冒頭です。先刻の川端の文章とはだいぶ調子がちがいます。

 『雪国』に話を戻します。(この時点では名前が明かされていない)葉子について実質上の語り手である島村があれこれ勝手な忖度したあとのp10で突如、以下の文章が展開されます。熟読の必要はありませんからリズムだけ、目で軽く追ってください。

 

 

 もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきりと思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の感触で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。しかしそれは彼が心を遠くやっていたからのことで、気がついてみればなんでもない、向側の席の女が映ったのだった。外は闇がおりているし、汽車のなかは明かりがついている。それで窓ガラスが鏡になる。

 

 

段落が変わってからの初っ端、かなり息の長い文章です。以下12pの途中まで延々と没入感のある文章が続きます。

P11の終わりに登場する、鏡に見立てられたガラス窓の向こうの夕景色が映る葉子と二重写しになって島村が感動する描写なんかは、絵図としてなかなか印象的です。実際、『雪国』のラストに至るまで、葉子が登場するたびに再三強調される絵図です。

また、先の引用で女を覚えている「指」と書かれます。女、とは島村と深い関係にあるこの小説のメインヒロインの駒子のことです。

 指、という具体的な身体の部位は、その後幾度となく描かれる島村の駒子との身体的接触への序奏としてさりげなく効果しています。

他のまわりの文章よりも一段と執拗に、没入感を以て描写することで、読者への注意の促しとしているのです。

 

                                      □

 

駒子の初出はp16で、これも序奏の例として特筆しておきます。

 

 

「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の前に突きつけた。

「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手を引くように階段を上って行った。

火燵の前で手を離すと、彼女はさっと首まで赤くなって、それをごまかすためにあわててまた彼の手を拾いながら、

「これが覚えていてくれたの?」

「右じゃない、こっちだよ。」と、女の掌から右手を抜いて火燵に入れると、改めて左の握り拳を出した。彼女はすました顔で、

「ええ、分かってるわ。」

ふふと含み笑いしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてた。

「これが覚えていてくれたの?」

「ほう冷たい。こんな冷たい髪の毛はじめてだ。」

「東京はまだ雪が降らないの?」

「君はあの時、ああ言ってたけれども、あれはやっぱり嘘だよ。そうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか。」

 

 

島村の指を自分の顔に押しあてる駒子という絵図です。身体的接触を媒介に、すべてを徒労と見ようとする島村に対し、駒子が自身の存在を主張するような描写は後々も事あるごとに繰りかえされます。

たとえばp102に至ると、

 

 

障子を押し飛ばすようにあける音で島村が目を覚ますと、胸の上でばったり駒子が長く倒れて、

(中略)

 

「火みたいじゃないか、馬鹿だね」

「そう? 火の枕、火傷するよ。」

「ほんとだ。」と、目を閉じているとその熱が頭に沁み渡って、島村はじかに生きている思いがするのだった。駒子の激しい呼吸につれて、現実というものが伝わって来た。それはなつかしい悔恨に似て、ただもう安らかになにかの復讐を待つ心のようであった。

 

 

熱、は、じかに生きている思い、へ。

これには東京で妻子がありつつ親の財産で無為徒食の生活をし、年に1度雪国を訪れる島村/借金を返しつつ真剣に仕事に恋に生きる芸者の駒子、という設定の対立が前提とされています。この種類の場面は、しかも幾度となく変奏されることで単なる強調だけでなく、島村の心が「旅行者」の立場から一歩も抜けない、いわば島村→駒子へ向かう力の量が殆ど微動だにしないのに反して思慕の募る駒子、という関係の運動を表現しています。

前述の「指」から派生した身体の接触という要素が、人物設定における対立構造を利用しつつ再三繰りかえされることで、強調されているのです。

 

                        □

 

駒子はこのように身体を強調されて、漸次的に思慕をつよめます。

対する葉子は。

窓ガラスに映っていた彼女は、駒子の妹にあたります。

 

 

悲しいほど美しい声であった。高い響きのまま夜の雪から木魂して来そうだった。(p8)

 

 娘は島村とちょうど斜めに向い合っていることになるので、じかにだって見られるのだが、彼女等が汽車に乗り込んだ時、なにか涼しく刺すような娘の美しさに驚いて目を伏せる途端、娘の手を固くつかんだ男の黄色い手が見えたものだから、島村は二度とそっちを向いては悪いような気がしていたのだった(p11)

 

「駒ちゃん、これを跨いじゃいけないの?」

 澄み上がって悲しいほど美しい声だった。どこからか木魂が返って来そうであった。

 島村は聞き覚えている、夜汽車の窓から雪のなかの駅長を呼んだ、あの葉子の声である。(p47)

 

 しかし葉子はちらっと刺すように島村を一目見ただけで、ものも言わずに土間を通り過ぎた。

 島村は表に出てからも、葉子の目つきが彼の額の前に燃えていそうでならなかった。それは遠いともし火のように冷たい。(p48)

 

「早くね、早くね。」と、言うなり後向いて走り出したのは嘘みたいにあっけなかったが、遠ざかる後姿を見送っていると、なぜまたあの娘はいつもああ真剣な様子なのだろうと、この場にあるまじい不審が島村の心を掠めた。

 葉子の悲しいほど美しい声は、どこか雪の山から今にも木魂して来そうに、島村の耳に残っていた。(p70)

 

 しかし、地蔵の裏の低い木陰から、不意に葉子の胸が浮び上った。彼女もとっさに仮面じみた例の真剣な顔をして、刺すように燃える目でこちらを見た。(p99)

 

 雪の信号所で駅長を呼んだ、あの声である。聞こえもせぬ遠い船の人を呼ぶような、悲しいほど美しい声であった。(p99)

 

「ええ。」と、うなずくはずみに、葉子はあの刺すように美しい目で、島村をちらっと見た。島村はなにか狼狽した。

これまで幾度も見かける度毎に、いつも感動的な印象を残している、この娘がなにごとももなく彼の前に座っているのは、妙に不安であった。彼女の真剣過ぎる素振りは、いつも異常な事件の渦中にいるという風に見えるのだった。(p112)

 

 

以上、少々多いですが葉子登場時の描写を抜粋しました。

初出時から殆ど表現が変わっていません。駒子とは接触がありましたが、葉子と島村はp112で会話をする以外、関係はほぼ進展しない所為もあるでしょう。

幾つかの引用では「真剣」の語も散見されます。

駒子同様、島村との対比ですが、美しい声と刺すように美しい目だけが反復強調されて、殆ど非人間的なうつくしさが葉子に付与されています。

小説のラストの描写で、これが劇的な効果を発揮します。

繭倉で火事が起きたことを聞きつけ、駒子と島村が駆けてゆきます。ここでは火と、天の河(水)とが雪国の夜に混じり合い、その状況設定だけでも美しい。

 

 

「ああっ。」

駒子が鋭く叫んで両の眼をおさえた。島村は瞬きもせずに見ていた。

落ちた女が葉子だと、島村も分かったのはいつのことだったろう。(p146)

 

葉子を落とした二階桟敷から骨組の木が二三本傾いて来て、葉子の顔の上で燃え出した。(p146)

 

水を浴びて黒い焼け屑が落ち散らばったなかに、駒子は芸者の長い裾を曳いてよろけた。葉子を胸に抱えて戻ろうとした。その必死に踏ん張った顔の下に、葉子の昇天しそうにうつろな顔が垂れていた。駒子は自分の犠牲か刑罰かを抱いているように見えた。(p147)

 

 

ふたつ目の引用でも、また同頁でも明示されますが、ここで冒頭のガラスに映った夕景色と重なる葉子という絵図が変奏して再現されます。また、葉子の落ち方は「ふっと女の体が浮かんだ、そういう落ち方だった。」「非現実な世界の幻影のようだった。」と、強調されていた非人間性がここでもあらわれて、それは浄化の象徴の火と共に、上から落ちてきます。さればこそ、この小説の最後の文章は「さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れてくるようであった。」と。

火を経て、上(天の河)からひとの世界に落ちてきたかのように。

「駒子は自分の犠牲か刑罰かを抱いているように見えた。」とは、愛憎や身体の接触の穢れとしての面を前提としています。それを身代わりとして受ける喩と化した葉子は、駒子でさえ持ちえない、まして島村からもっとも対極にある美しいものの象徴として結実します。

 その為の準備として、声と目だけの強調があり、最後までそういう言葉と葉子の関係を不動のものとして繰りかえしてきたことの効果は、実にさりげない、どころか一見すれば稚拙な瑕疵にも映りかねない技術ですが、この小説の核心を育てるに至るのです。

 

                            □

 

一般的に『雪国』は日本の美を叙情的に描いた小説だと言われています。

「哀れ」「徒労」「旅愁」という言葉はたしかに登場します。ただしこれは三人称に擬態した島村の視線から出たもので、いわば強烈なフィルターといっても差し支えないでしょう。叙情の表現ではなく、あらかじめ叙情をあらわす定型を設けたうえで、駒子や葉子の言葉のなかには叙情の定型句をつかってみずから哀れむ素振りは一切ありません。生々しく、真剣で、その場かぎりの生は、むしろ紋切りの叙情を見ようとする視線と喰いちがい、喰い破ろうとしてくる。そのような、彼女たちの「存在している」ことの強烈さが、肉体、視線や声などによってあらわされて、『雪国』を叙情の仮面を被った反-叙情小説と言っても許されるでしょう。

そして、そのような読みを許す為には、いわば火を効果的に燃やす為の組み木が必要となります。設定や、特定のアクセントの強調や変奏といった、上に挙げた基礎的な技術がそれです。

昨今では火を煽ることに真剣になっていたら薪を意図せず組み上げていた、というふうな非構築的性を演出することが国内文学の一部で隆盛しています。それはそれとしていま一度、古典と呼ばれる小説がどのように時の雨に耐えて燃え続ける火であるのかを、組み木の観点から再点検してみるのも無益ではないと思い、このたびの記事と致しました。

 

また機会があればなにか書きたいものです。それでは。