水底のうたかた

たまさかのお喋り

あの坂の向こうは

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記憶は場所に対して様々な変容をほどこす。平凡な光景も時には驚くほどの彩色を帯びて他人の目に映ることもあるし、それは大抵、他人とは分かち合いがたいものだ。小説を読み、ここにはわたしの幼年時代、わたしの童心がある。この小説の人物の苦悩はわたしの苦悩だ、と告白するとき、それは読者が小説の中心地点に一本の錨をおろしているようにも思えるのだが、実のところ、まるですでにたくさんの署名の記された壁に新たにあなたの署名をくわえるようにしてあなたは、小説にあなたの幼年時代などを差し出しており、かくしてあなたを契機として小説のほうが新たな衣装を手に入れ、そして悠々とした足取りでさらなる衣装を求めて行く。小説は口が固いので、あなたの幼年時代のことを誰にも洩らしはしない。小説はあなたから貰った衣装をそっと箪笥に仕舞い込む。あなたの幼年時代や童心は、相も変わらずあなたのなかにしか存在しない。そいつは小説と一緒に外へ出かけたようなふりをして部屋の隅にうずくまったままでいる。小説にかぎらず文章とはそうしたものではないだろうか。慄然とするほど遠く離れた世界で生きる者同士が同じものを共有するには、この方法はあまりにも心許ない。でもぼくは、その心許ないことをこれから為そうとしている。失敗するだろう。何度だって失敗するつもりだ。写真は何かの手助けになるだろうか。それを試してみたい。

 

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誰にも他人に話してもなかな理解して貰えないが、秘かに怖れているものというのがある筈だ。幼いころのぼくは、この平坦な一本道の先が怖かった。緩やかな坂を登り、角をまがることを極度に怖れた。いつしか、ぼくの頭のなかではあの道の向こうには凶暴な野犬がいることになっており、犬の遠吠えを聞くたびにぼくはその存在を予感しては怯えていた気がする。実際、大人たちは言うのだった。イノシシが出る、とか。

 

大人になることの利点があるとすれば、こうした神秘の入り混じった恐怖のベールの正体を剥いでやれることだと考える。それが良いか悪いかはまた微妙な問題だが。ぼくは神秘を破る為に足を進めた、おそるおそる。

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最初の角を曲がった先に現れたのは、地続きというに相応しい光景だったけれども、些か驚きを以てぼくの目には映った。人跡があるというのも驚異だし、予想だにしない花々があることも驚異だった。そしてあたりは静まりかえっていた。風と葉のそよぎだけが響く。ザクロが鬼火のように赤い。

 

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それから、少し坂を登ると山のふもとに辿り着いた。生憎、登山の準備はしていなかったのでぼくはここで引き返した。それにしても、ひとの踏み行った跡の殆どない場所の木々や花々は奇妙に攻撃的な形態や色彩をしている、こんなちいさな田舎の端でさえ。花も戦争をするのだろうか。例えば銃口をいっせいに相手の陣地へ向け、甲高い号令を合図に一斉に火を噴くようなことが?そうだとすれば敵もやはり花々になるのだろうか、それとも鳥や虫なのか。彼女たちにとって現在もっとも関心深い政治的トピックを尋ねてみたい。

 

 

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さて、神秘の踏破を終えたぼくは引き返して人々に散歩の印象や自分の幼年時代に抱いていた迷信について語った。すると聴衆のひとりだった女性が言った。この近隣に育ったから、妹とふたりでよく探索に出ては、あの山奥にイノシシの罠が張っているのも見た。それから、猿も見たことがあるよ、と。野犬ではないけれど幼年時代に抱いた恐怖は間違っていなかった、とぼくは新たな軽い恐怖と共に思った。それから、今度は彼女が話し手になり、幼い頃の荒唐無稽な思い出の幾つかを語ってくれた。彼女は今年の七月に結婚するそうだ。